良い牧者キリスト
ヨハネ10:7-18
イエスはこの福音書の中で、ご自分を世に表すために、何度も「わたしは…です」と言われたが、ここでは門(9節)、良い牧者(11節)と言っておられる。いずれも主がどういうお方かをよく示す。
前章で、イエスによって目が開かれた盲人が主と再会したとき、主は、心が頑ななパリサイ人たちを痛烈に批判された(9:39,41)。イエスの思いは、手軽に癒されている哀れな群衆に対する愛だった(マタ9:36、エレ8:11)。民を養う本当の牧者がいない現状に心を痛め、ご自身こそ真の牧者であることを示された。
1.イエスは羊の門
イエスは、羊が囲いの中に入るために通る門だ。羊(=私たち)が入る囲いとは、魂の救いを得て、神との交わりに生きることだ。旧約時代、民が神に近づくためには、贖いの犠牲が必要だった。イエスは世の罪を取り除く贖いの子羊となられた(ヨハ1:29)。
主の血の贖いを受けた者(=信じた者)は、必ず魂の救いを得、自由と満足を得る(9節)。罪の赦しを得、罪の束縛から解放され、平安を得る。明確な救いを得るには、罪を認め、神の前に悔い改め、十字架を信じるという門を通ることが必要だ。
2.イエスは良い牧者
良い牧者(11節)の条件は、①羊への犠牲的愛、②羊の健康状態を見分ける力、③羊を健全に養い育てる力を持っていることだ。
①イエスは私たちを犠牲的な愛で愛してくださった(ヨハ15:13、1ヨハ3:16)。私たちは愛していただくに値しない者、罪のために滅びゆく者で、神を知らず、自分勝手な生き方を続けていた。そのような私たちを、主はご自分のいのちを投げ出して救ってくださった。徹底して父なる神の御心に従い、ご自分から十字架にかかられたのだ(18節)。十字架は主の従順の究極の姿だった。
②イエスは私たちをよく知っておられる(14節)。牧者は羊を一匹ずつよく知っている。羊はこういう羊飼いに信頼してついていく。主は私たちがどういう者かを知っておられる。私たちは罪が赦されていのちを得る。さらに内にキリストが生きておられるという信仰に啓かれて、もっと豊かないのちに生きる者となる(10節)。救われても、なお神の御心に従えないという自分の本性がわかり、主の前に出て、自我を十字架につけた者は、キリストが内に生きてくださるという恵みをいただき、内側から強められる(ピリ4:13)。
③イエスは私たちを健全に養ってくださる。羊飼いは羊を良い牧草、清水のもとに導き、十分な養いを与える(詩23:1,2)。羊飼いのもとにいれば羊は安心できる。主は私たちを聖霊の恵みによって正しく養い、導いてくださる。養われている証拠は、私たちが主のごとく(ヨハ5:19、8:29)ただ御心のままにと主に従っていることだ。
私たちも従う者でありたい。平日の歩みにおいて、主を喜ばせることにどれほど心を用いているかが問われる。イエスは、神の御心に従われたから神様に愛されたのだ(17節)。主の養いとは、私たちを虚しくさせて神の御心に従わせる養いだ。良き牧者キリストのもとにある豊かな魂の養いをいただこう。