主は心を見る
1サムエル16:1-13
今日の箇所は、前章で神から退けられたサウルに代わり、ダビデが新しい王として選ばれる場面だ。中心聖句7節の「うわべ」は、目という言葉が使われている。自分の目に映るもの、人の目に映るものによって生きる生き方だ。しかし、主がご覧になるのは「心」、その人の奥底に何があるか、その人がどう神の前にいるかということだ。
サウルとダビデはその好例だ。サウルは、目に映るものによって生きた。彼が神の前から退けられた原因となった2回の失敗が物語る。1度目の失敗は、13章に記されている。彼は、目に見える不利な状況を理由にして、わきまえのない行動をとった(13:11,12)。しかも、それをサムエルから指摘された後も(13:13,14)、神の前に悔い改めなかった。2度目の失敗は、15章に記されている。彼は、全てを聖絶するようにという神からの命令に背き、自分の目に価値のあるものを残した(15:3,9)。サムエルからその罪を指摘されても、心からの悔い改めはせず、自分の面目を保とうと細工した(15:30)。彼は、取り扱ってくださる神の前に心を頑なにした。砕かれることも、罪を悔いることもせず、神に喜ばれる心になることを拒んだ。
一方のダビデはどうだっただろうか。彼もまた、度々目に映るものによって行動し、失敗した。だが、彼がサウルと決定的に違ったのは、神の前に砕かれ、罪を悔い改めたことだ。彼の最大の失敗は、バテ・シェバとの姦淫、そして、彼女の夫の謀殺だった(2サム11)。彼がバテ・シェバに肉欲の目を向けたことが罪の発端だったことは示唆的だ(同11:2)。彼は神のみこころを損ない(同11:27)、彼は預言者ナタンによって指摘される(同12:1-12)。これを聞いた彼は、即座に自分の罪を悔い改め、神も即座に罪の赦しを与えられた(同12:13)。このときの彼の心は、詩篇51編に歌われている。この中で、彼は、自分が神の御目の前に罪人であることを告白し(詩51:3,4)、神による心の造り変えを願っている(同10)。さらに、人は神の前に砕かれない限り、救われることはないことを語っている(同16,17)。
神がご覧になるのは、私たちの心だ(2歴16:9a)。イエスが中風の人を癒やされたとき、それを見ていた人々は心の中で悪いことを考えた。イエスは彼らの心を見抜き、鋭く指摘された(ルカ5:22)。また、安息日に会堂で片手の萎えた人を癒やされたとき、教え導こうとされる問いかけに対して、心を頑なにして黙る人々の心をイエスは嘆かれた(マル3:4,5)。神は私たちの心にも光を当てられる。私たちの心には何があるだろうか。私たちはどう光に応えるだろうか。
まず私たちは、心の中に罪の解決をいただきたい。その罪のためにキリストは十字架で死なれ、よみがえられた。私たちが、罪を悔い改め、十字架と復活を信じるならば、罪の解決と魂の救いをいただくことができる。さらに、救われてもなお、神の御目を侮り、神に逆らい続ける肉が心の中にあることを認め、信仰によって十字架につけて始末したい。そして、内側にキリストに臨んでいただきたい。こうして内住のキリストによって、心が全く新しくなった者こそが、神に思いと心を探っていただいても大丈夫な姿だ(エペ3:17a,黙2:23b)。
聖書は繰り返し、主が再び来られる日に備えて、心を強め、整えるようにと語る(ヤコ5:8bc,1ペテ1:13,4:7)。私たちの心はどうだろか。主は、いつも私たちの心をご覧になる。うわべばかり見ながら生きるのではなく、心をご覧になる主の前を生きる者になりたい。