私たちが脱ぎ捨てるべきもの
マルコ10:46-52
今日の箇所に登場する、目の見えない物乞いバルティマイについては、マタイとルカの福音書にも記されているが、彼が上着を脱ぎ捨てたことを描写するのはマルコだけだ(50節)。詳しく見る前に、10章全体に目を向けたい。
ここに4通りの、捨てるべきものを捨てられない人たちの姿がある。まず、離縁についてイエスに質問したパリサイ人たち(2-9節)だ。彼らは「イエスを試みるために」(2節)、この質問をした。悪い心、憎しみと妬みに満ちた心を捨てられない姿だ(ロマ13:12, エペ5:7-11)。
次に、イエスのもとに子どもを連れてきた人々を、叱った弟子たち(13-16節)だ。無慈悲と傲慢が捨てられない彼らの本性だ(エペ4:31)。次に、イエスのもとに来たものの、財産を捨てられずに去ってしまった人(17-22)だ。世にあるものに執着し、肉欲を優先させる生き方が捨てられない姿だ。その根本にあるのは不敬虔、心の底では神を侮る心だ(テト2:12)。
最後は、イエスの右と左に座りたいと、出世を願い出たヤコブとヨハネ(35-45節)。後を読むと、この二人だけでなく、弟子たち皆がそうであったことがわかる(41節)。イエスの受難の予告を聞いたばかりだったにも関わらず(32-34節)、彼らは自分たちの野心で満ちていた。自己中心、自己本位、自己満足な心が捨てられない姿だ。しかも、その本性を悟られないように誤魔化(ごまか)す偽善の姿も窺(うかが)える(1ペテ2:1)。
これらの人々と対照的に、バルティマイの姿が描かれている。まず彼は、イエスに救いを叫び求め続けた(47節)。イエスは、この叫び声を聞かれ、彼を呼ばれた(49節)。これはキリストの救いを表している。私たちがキリストに救いを求め続けるならば、キリストは必ず十字架と復活による救いを与えてくださる。私たちが自分の罪を悔い改め、罪を捨て去って、キリストのもとに行くならば、キリストは私たちに罪の赦しと滅びからの救いを与えてくださる。
さて、呼んでいただいたバルティマイは、上着を脱ぎ捨てて、躍り上がった(50節)。彼にとって、上着はおそらく唯一の財産だっただろう。失っては生きていけないものだったはずだ。しかし、彼はもはやそれが捨てるべきものだと悟ったのだ。
私たちも、明確な救いをいただいたならば、捨てるべきものが何かを悟ることができる。何を捨てるべきなのか。救われてもなお残る罪の性質、神を第一にすると言いながら、世に迎合し、神に逆らう肉だ。神は、何が私たちの内側にのさばっているかを見ておられ(ヨハ2:25b,1コリ4:5b)、それを捨てるようにと光を当てられる。その光に従って、自分が捨てるべきもの捨てない限り、私たちは先に進むことができない(マタ5:26)。
さて、バルティマイは、イエスから何をしてほしいか問われたとき、目が見えるようになることを的確に求めた(51節)。これは、霊の目が開かれるようにという求めだ。何が神の御心なのか、神を喜ばせることなのかを悟る目だ(ロマ12:2)。私たちも、意志と信仰をもって、十字架の上に捨てるべきものを捨て、主のもとに来るならば、霊の目を開いていただくことができる。内にキリストに臨んでいただき、キリストと共に、キリストの道を進んでいくことができる。
捨てるべきものを捨てるように、今も主は私たちに光を当てておられる。意志と信仰をもって光に従いたい。