主の宝の民とされた恵み
申命記7:1-11
モーセ五書の第五書である本書は、“二番目の律法”と言われる重要な書だ。一番目の律法は出エジプト記、レビ記、民数記だが、本書は単なるその繰り返しではない。一番目の律法は、荒野の旅をする民に与えられた神の律法で、民をカナンの手前まで導くためのものだった。それに対して本書は、カナンに入ろうとする民のために語られた神の律法で、ヨルダン川の東側において(1:1)、出エジプトして40年後に(1:3)与えられた。
本書は、シナイ律法とは別のモアブの契約だ(29:1)。イスラエルには2つの契約が与えられた。律法とは契約であり、民を拘束するものではなく、従えば祝福するという神の約束だ。契約は信頼関係がなければ成立しない。民は神を信じ、神は彼らを信頼して契約を結ばれた。民は不真実だったが、神は真実だった(9節)。
神がいかに真実な方であるかは、イスラエルの民を聖なる民、宝の民にするという約束に現された(6節)。もともと彼らに聖さがあったからでも、資格や価値があったからでもない。むしろ彼らは少数民族で、軍備もなく弱小だった。ただ神の一方的な愛の故、贖いの故だったのだ(8節)。
イスラエルの民のことだけではない。神は私たちを主の聖なる民、主の宝の民としてくださる。私たちには何の資格も価値もない、罪と滅びに定められた者だった。しかし、神がキリストの贖いによって(ロマ3:24)、岩から切り出し、穴から掘り出された(イザ51:1)。
キリストは、神から捨てられるようにして十字架につけられた。一人が捨てられ万民が救われるという、捨てられる資格がある唯一のお方として十字架で死なれた。それによって、不義なる私たちが義なる者になった(2コリ5:21)。義認は信仰によって受ける恵みだ。罪の悔い改めと十字架を信じる信仰によって、救いがはっきりとする。
十字架の恵みはもう一つあった。我がための十字架であるだけでなく、さらに我も共に付けられている十字架だ。主は十字架上で死なれた。私たちはその主の死にあずかるバプテスマを受けた。であるなら、私たちも共に罪に対して死んだ者になったはずだ。そしてキリストが復活されたように、私たちも神に対して生きる者になったはずだ(ロマ6:3,4)。
しかし現実は、環境や状況や気分に左右される信仰ではないだろうか。どこまでも自己中心の信仰、自分が傷つかず、痛まず、損をしない範囲内での信仰ではないだろうか。これでは神が満足されない。
まず自己の真相を、目を逸らさず、ごまかさず、素直に認めることだ。そして十字架のもとに行き、十字架を仰ぐことだ。そこに自分も付けられていると信仰によって決算し、待ち望む魂に主は臨み給う。キリストが聖霊となって内住されるのだ(21節、ガラ2:19,20)。ここから聖霊に導かれる新しいクリスチャン生涯が始まる。これが贖いだ。こうして神は私たちを聖なる民、宝の民にし、神に専属する者にしてくださる(7節)。世にありながら神に属する者として歩むのだ。船は水に浮かぶが、水は船の中に入らないように、世は私たちの中に入らない。ノアの箱舟は内外にタールが塗られた(創6:14)。贖いのタールが塗られているのがクリスチャンだ。
神は私たちを愛しておられる。私たちがどんな者でも、宝の民としたいと願っておられる。その愛に応える道は、御言葉に従うことだ(11節)。神が私たちを高価で尊いとみなしてくださる(イザ43:4a)のは、キリストの十字架の贖いがあったからだ(同43:1)。神は私たち一人一人を、十字架の血潮をもって高価で尊い宝の民に仕上げたいと願っておられる。御言葉に従いつつ渇いて求めよう。