塩の味
ルカ14:25-35
今日の中心聖句は34節、イエスが語られた塩の譬え話だ。有名なのはマタイの福音書のほう(マタ5:13)だが、両者には微妙なニュアンスの違いがある。「味をつける」と訳されている言葉が、マタイでは”塩をふりかける”という意味の動詞が使われているのに対し、ルカでは“用意する、整える”という意味の動詞になっている。用意する、整えるとはどういうことなのか。
34節に至るまでの流れに目を向けると、同じ言葉が繰り返されていることに気が付く。まず「できない」という言葉だ(26,27,33節)。こう「できない」を強調されたイエスご自身が、「できない」に徹して生きられた(ヨハ5:19)。この徹底した自己の無能こそ、私たちに与えられた罪の解決と滅びからの救いの土台だ。
私たちは、自分では自分の罪をどうすることもできない(ロマ8:7,8, ヨハ3:3,5)。このような、どうすることもできない私たちのために、キリストは十字架にかかって死んでくださり、私たちを新しく生まれさせ、新しく生きる者としてくださった。キリストだけが、私たちを救う事ができるお方だ(ヘブ7:25)。私たちは、自分の罪を悔い改め、キリストの十字架を信じるならば、この救いをいただくことができる。私たちをがんじがらめに縛り、自分ではどうすることもできなかった罪の縄目は解かれ、私たちの生き方は、この救いによって新しくスタートする。
さらに、イエスの自己の無能は、私たちが全く聖なる者となるという聖潔(きよめ)の土台だ。明確な救いをいただいた者は必ず、自らの汚れに気が付く。あれだけ、どうすることもできないと言っていた罪を慕い、また同じような罪を犯している。自分が何かできると傲慢になり、人が何かできないと見下げ、自分が何かできないとふてくされ、人が何かできると妬む。これらは全て、肉の姿だ。肉のままでは、神を悲しませ、神に受け入れていただくことはできない(ロマ8:7,8)。私たちが、こうした肉を捨て去り、信仰によって十字架につけるならば、キリストが私の内に臨み、生きて働いてくださる(ガラ5:24, 2:20)。こうしてキリストの全き救いをいただいた者は、キリストが生きられたように自己の無能に徹して生きることができる。キリストなしでは、何もできない、でも、キリストがいてくだされば、何でもできると、信仰によって告白することのできる生き方だ(ヨハ15:4,5, 3:27)。このように生きる者は、まず何をなすべきなのかを悟り、それを実践する者だ。
次に、今日の箇所で、3回の「できない」に挟まれて、「まず座って」という言葉も2回繰り返されている(28,31節)。まず何をなすべきなのか。それは、座ること、つまり、神の前に出ることだ。あれこれ動き回る前に、まず神の前に出ることが大切だ。イエスのもとに導きを求めて来た指導者は、「何をしたら」と問うた(ルカ18:18)。この問いの主語は自分であり、自分がやることにしか心がないことがわかる。これに対してイエスは、財産を売り払って施し、「わたしに従って来なさい」(ルカ18:22)と言われたが、彼はそれを聞き取ることができなかった。「何をしたら」に目が行っていたからだ。イエスに悪霊を追い出していただいた人が、イエスにお供をさせてほしいと願い出たとき、イエスは彼に「主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか」を伝えるように言われた(マル5:18,19)。この言葉の主語は、主、キリストだ。イエスは、彼が何をするのかではなく、何をしていただいたのかに目を向けるよう教えられたのだ。彼は自分の願いが退けられ、思い通りにならなかったにも関わらず、喜んでキリストを証した(マル5:20)。
神が求められるのは、私たちが何をするかよりも、私たちがどうあるかだ。復活後のキリストが弟子たちに命じられたのも、都にとどまるように、座って待つようにということだった(ルカ24:49)。私たちも、神の前に出て、落ち着いていれば救われ、神に静かに信頼していれば、神から力をいただく(イザ30:15)。
このような流れがあって、34節で塩の味が語られている。用意のできた、整えられた者は、塩の味を出すことができる。それは、明確な救いをいただき、内に主に生きていただいて、自分ではなく、キリストによって生きるところに徹する姿であり、いつも神の前に出て、何をするかよりも、神の前にどうあるかをわきまえた姿だ。私たちの塩の味はどうだろうか。塩で味のつけられた者となり、塩の味を失うことのないように気をつけていたい。