イエスの祈り
ルカ9:18-20
ルカの福音書には、イエスが祈る御姿がたくさん記されている。今日開かれている9章も、祈りについて私たちに大切なメッセージを語っている。
まず9章全体を大まかに俯瞰(ふかん)してみたい。弟子たちが派遣される記事(1-6節)に始まるこの章は、パンの奇跡で最初の山場を迎える(10-17節)。「男だけでおよそ五千人もいた」(14節)群衆の腹を満たした奇跡は圧巻だが、よく読むと、これは弟子たちの訓練を兼ねていたことがわかる(13節)。だが、彼らはこの訓練に信仰を働かすことはできなかった。
続いて、今日の中心聖句18節を挟んで、ペテロの信仰告白(20節)があり、受難の予告(21-27節)へと繋がる。それから、山の上で弟子に栄光の御姿を現された(28-36節)イエスは、山麓において、弟子たちが癒すことのできなかった男の子を癒やされ(37-42節)、またもや受難予告をされる(44節)も、弟子たちはそれが理解できなかった(45節)ばかりか、誰が一番偉いかという議論が巻き起こる(46節)。イエスはそれを諭され、さらに十字架を目指して進まれる(51節)。
本章の締めくくりは、やはり弟子にふさわしい者とは何かを語る記事だ(57-62節)。以上のように、本章は弟子にスポットが当てられ、彼らの実態が包み隠さず描かれている。そして、その中にイエスの祈りが2箇所(18、29節)、受難予告も2箇所(22、44節)、柱が支えるかのように差し込まれている。弟子たちはイエスの祈りに支えられていた。今はまだ弱く、悟ることのできず、やがて来たるイエスの受難によって振るわれる弟子たちだが、その後、聖霊をいただき、今度こそ本物の弟子となり、主のために生きるようになることをイエスは信じておられた(ルカ22:32)。
私たちのためにも、イエスは祈っておられる。私たちが、まだ神を知らず、罪の中にいた時から、イエスの祈りは始まっていた(ルカ23:34)。罪を悔い改め、十字架を信じて、滅びからの救いに入るようにと、イエスは私たちのために祈っておられる。さらに、救われてもなお残る罪の根さえも、十字架の上に始末し、キリストに内に臨んでいただいて、キリストに生きて働いていただき、本物の主の弟子として神の喜ばれるように生きるようにと、イエスは私たちのために祈っておられる。
続いて、今日の中心聖句18節に目を移したい。イエスは一人で祈っておられた。弟子たちが一緒にいたが、一人だった。他の箇所では、寂しいところに退いて祈っておられる御姿もある(ルカ4:42, マル1:35, ルカ5:16)。“密室の祈り”を愛されたイエスのように、私たちも、心の「戸を閉めて」(マタ6:6)、一対一で神の前に出て、“密室の祈り”をささげたい。神は、そのようにご自分の前に出てくる私たちの心をご覧になり、祈りに応えてくださる。
さて、イエスは、一人で祈りながらも、同時に弟子たちをあえて一緒におらせた。彼らに祈りを学ばせるためだ。他の箇所では、祈り終えられたイエスのもとに弟子たちが来て、祈りを自分たちにも教えてほしいと願っている(ルカ11:1)。イエスが祈る御姿を度々間近で見る内に、自分たちもそのように祈る者になりたいという渇きが生まれたのだ。祈りは学ぶものだ。育てられ、深まっていくものだ。
祈りは、体裁でもパフォーマンスでもない。唱え文句やノウハウやスタイルでもない。私たちも、イエスの祈る姿を学び、心を学び、祈りを学びたい。