山の上で主の前に
Ⅰ列王19:1-21
預言者エリヤは、カルメル山でバアルの預言者と対決し、圧倒的勝利を収めた。彼は、主への混じり気のない信頼をもって、人を恐れずただ神をのみ畏れ、人に妥協せずただ神にのみ従った神の人だった。
ところが本章では全く別人のようだ。アハブ王敗北の報に激怒した妃イゼベルは、エリヤ殺害の意志を本人に通達した(2節)。恐怖のどん底にたたき落された彼は、ベエル・シェバに逃れ(3節)、エニシダの木の下に座して、ただ自分の死を願い求めた(4節)。彼は不信仰になっていた。火をもって応えてくださった神に目を留めず、凶暴な王妃の刃(やいば)を恐れた。エリヤほどの信仰の人が…と思うが、これは私たちへの警告だ。
神から目を離せば、いかなる人も力を失うことを教えられる。人は弱いものだ。力と勇気はただ信仰による。また、華々しい勝利の後に危険があることも教えられる。神の栄光が現されれば、悪魔は黙っていない。祝福の後に堕落する危険がある。成功したエリヤの心に隙(すき)があったのかもしれない。サタンはそこを見逃さなかった。
失意のどん底にあるエリヤを、神は懇(ねんご)ろに取り扱われた。二度にわたって焼け石のパン菓子と壺(つぼ)の水で養われた。しかし魂が取り扱われなければならなかった。彼は神の山ホレブヘ導かれた(8節)。かつて神がモーセに燃える柴の中から語られた神の山(出3:14)、またモーセに顔と顔とを合わせて語られた臨在の神の山だ(出33:11a)。しかしエリヤはほら穴に入った。彼はまだ主の前に出ていない。神の臨在の場に来ても、まだ逃避の姿から抜けられない。
自分で出て来ない彼を、神自らが引きずり出された。神は彼に、ここで何をしているのかと語られた(9節)。かつてエデンの園で神が罪を犯したアダムに語りかけられた言葉(創3:9)に似ている。彼はこの言葉の前に己の魂が探られたが、まだ彼の応答は自己弁護であり、現状への不満であり、神への不平だ(10節)。彼は不信仰を認めようとしない。さらに自分でも気がつかない自己憐憫(れんびん)があった。エデンの園でアダムがエバのせい、果ては神のせいにしたことに通じる(創3:12)。
彼は慰めの言葉をかけてほしかったが、主は彼に、山の上で主の前に立てと言われた(11節)。状況を見るのでも、己の義を立てるのでもなく、裸で主の前に出よと言われるのだ。彼は、目を見張るしるしを通して慰め、励ましが与えられるかと期待して出たが、大風の中にも、地震の中にも、火の中にも主はおられなかった。目に見える現象には主は現れ給わなかった。
その後、かすかな細い声があった。再び主は「汝ここにて何を為すや」と語られた。彼はここでも自己主張をやめない。やはり自己正当化と自己憐憫の殻を破れないのだ。主はそんな彼に、自分の道に帰れと言われた(15節)。ハザエルに油を注いでアラムの王に、エフーに油を注いでイスラエルの王に、エリシャに油を注いで後継者にせよと言われた。過去の自分の熱心さにしがみつき、不満を神にぶつけ、自らの不遇を憐れむより、すべき事を最後まで忠実にせよと、主は言われるのだ。
さらに神は、バアルに膝をかがめない七千人を残すと言われた(18節)。主は、自分一人だけ残ったという彼の傲慢を砕かれた。神が真の預言者たちを備えられるのだ。エリヤは立ち直り、自分の道を帰って行った。主の前に出たから、そして静かな細き御声を聞いたから、彼は信仰の回復を得たのだ。
私たちのいる所はいつも主の前だ(詩46:10)。神は静かな細き御声をもって語られる。キリストの十字架で贖ってくださった神は、私たちを懇ろに取り扱ってくださる。かすかな細い声を聞き取る者になりたい。そのために、私たちも山の上で主の前に立とう。