礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.07.31

神の憐れみの目線

ヨナ4:1-11

今日開かれているヨナ書には、神からニネベへ遣わされた預言者ヨナの姿が描かれている。まず、ヨナ書の流れに目を向けたい。1章には、ヨナの派遣、それに対する彼の反抗、そして、神の懲らしめと助けが記されている。2章には、ヨナの祈り、3章には、改めて派遣されたヨナの宣教、及びそれを聞いたニネベの人々の悔い改め、そして、神のさばきの思い直しが記されている。4章には、さばきを思い直された神に対して再び反発するヨナの姿と、そんなヨナに注がれる神の憐れみの姿が記され、ご自分の憐れみの御心を示してヨナを諭される神の御言葉によって締め括られる。この最後の御言葉が、ヨナ書の結論だ(4:10,11)。「惜しむ」とあるが、憐れみの心をもって見るという意味だ(マタ9:36)。

ここから次のことを学ぶことができる。①神は憐みの目線を注ぐ。罪のために滅びる者たちに対する神の本質だ(エゼ33:11-16)。②神は憐れみの目線を教える。自らを正しいとして、神の御心を悟らない者たちに対する神の姿勢だ(ルカ6:36,ピリ2:5)。③神は憐みをもって導き、あきらめずに語り続ける。神の御言葉を聞かず、神に従おうとしない者たちに対する神の愛の心だ(詩119:65-72)。ヨナ書は神の御言葉によって締め括られているが、それに対するヨナの反応は記されていない。私たちはどう応えるだろうか。

次に、今日の箇所で二つの言葉に目を留めたい。「(死んだほうが)まし」(3.8節)というヨナの言葉と、「右も左もわからない」(11節)と言われた神の御言葉だ。「まし」とは“良い”という言葉で、ヨナはここで自分の勝手な感覚と強情な思いから良し悪しを決めているのだ。しかし本来、“良い”ものは神が創られたものだった(創1:31)。神は人をも創られ、人は神に“良い”とされたものによって生きる存在だった。ところが、罪が入り、人は神のように良し悪しを自分で決めるようになった(創3:5,6)。人は神から離れ、神の前に善ではなく悪を行う者となった(詩14:1-3, イザ5:20)。罪のために滅びる者となった私たちを憐れんでくださった神は、キリストを遣わしてくださった。キリストの十字架と復活によって、私たちは罪の赦しと滅びからの救いをいただき、もう一度神に“良い”とされる者となることができる(ミカ6:8)。

もう一つの箇所、「右も左もわからない」とは、“右手と左手の間で区別がつかない”という意味の表現で、神に喜ばれることとそうでないことを見分けることができない状態、神に喜ばれること、神に従うことが示されているのに、反対側へと心が向き、突き進んでしまう姿を指す(伝10:2)。これはニネベの人々のことのようだが、ヨナの実態が暗に示されており、同時に私たちの肉の姿でもある。私たちは、肉のために、神が“良い”とされる生き方を示していただいていても、反対側へと向いてしまう、心の定まらない者だ(1列18:21, ヤコ4:8, ロマ8:7,8)。

そのような私たちに、神の憐みは注がれ続けている。私たちが神に立ち返り、神の憐みにすがるようにと、神は私たちを導いてくださる(イザ55:7)。私たちが肉を十字架の上につけて始末し、捨て去るならば、キリストが内に臨み、私たちはキリストに働いていただいて新しく生きる者となる(ガラ2:19,20)。もはや、肉を喜ばせる生き方ではなく、神を喜ばせる生き方だ(ロマ12:1,2)。神の“良い”とされるところを選び取り、神の憐みの目線をもって滅びゆく魂のところに遣わされる者となることができる。

神の憐みの目線に対して、私たちはどのような態度をとるだろうか。私たちもまた、神の憐みの御心を教えていただきたい。