信仰による忠実
1コリント4:1-5
今日開かれているコリント人への手紙は、パウロがコリントの町に建てられた教会に宛てて書いた書簡だ。コリントの町は、商業・貿易の中心として繁栄していたが、宗教的・道徳的には退廃していた。パウロの伝道の実として、この町にも教会が生まれたが、パウロが去った後、町に溢れる堕落が容赦なく入り込んだ。特に、クリスチャンだ、教会に属する者だと言いながら、全くそれにふさわしくない歩みを平然と送る人々の姿は目に余るものがあった。パウロは、そんな彼らに、ふさわしい忠実な歩みを示す必要があった。私たちも、忠実ということについて、次の3つの光を神から当てていただきたい。
- あなたの忠実は信仰に裏打ちされているか
今日のキーワードは「忠実」(2節)だ。英語でもギリシャ語でも、「忠実」には”信仰のある”という言葉が使われている。また、ヘブル語では、”はっきりとした、揺るがない”という意味がある。このように、真の忠実と揺るがない信仰は表裏一体の関係にあり、互いに密接に結び合っている。忠実は信仰に根ざしており、信仰は忠実に裏打ちされている。信仰はあるが、忠実ではないとか、信仰はないけれども、忠実だということはあり得ない。では、忠実さの根幹となる信仰は、何を基準としているのか。
- あなたは神の奥義の管理者とされているか
信仰の基準はキリストだ。「管理者」(1節)とあるが、“家が割り当てられた人”という意味で、いわゆる執事のことだ。当時、奴隷から解放されて自由人としての身分を与えられた人が任じられた。私たちも、キリストの十字架と復活による救いを通して、罪の奴隷から解放され、キリストに属する自由人としていただいた。そして、キリストの体である教会につながり、神の家に携わる者としていただいている。神の家では、キリストという神の奥義が語られる(エペ1:8-10, コロ1:27b)。それは、まず先に自分がいただいた、キリストの十字架と復活による罪と滅びからの救いのことであり、さらに、内住のキリストによって聖なる者として歩むことができるという聖潔のことだ。この奥義に与った者だけが、忠実な奥義の管理者となれる(2節)。
- あなたはさばき主である神の前に出ているか
3節以降、さばきについて語られている。「神の奥義の管理者」の忠実さは、さばき主である神の前を常に歩む誠実な姿勢によって証明される。さばきとは、正当な手続きを経て、正しいものと正しくないもの、良いものと悪いものが判断され、分けられることだ。パウロが「私をさばく方は主です」(4節)と告白する通り、私たちは、真実な神の前に出なければならない(2コリ5:10)。キリストの救いをいただいた私たちが、さばき主である神の前に出るとき、私たちの内側に隠れたものは明るみに出され(5節, マル4:22)、私たちは自らの汚れた姿に直面することになる(ゼカ3:1-3)。しかし、私たちが自己の真相から目を逸らさずに認め、絶望し、肉を十字架につけて捨て去るならば、キリストが内に臨んでくださり、私たちを新しくしてくださる。新しい人、新しい衣を着せていただくことができる(ゼカ3:4,5, コロ3:9b,10)。内におられるキリストを通して、私たちは忠実な者として、「神の奥義の管理者」にふさわしく歩むことができる。
私たちも忠実な者となりたい。信仰による忠実を神におささげし、「よくやった。良い忠実なしもべ」(マタ25:21)と、終わりの日に主から言っていただける者となりたい。