礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.06.19

キリストにあって造られた者

エペソ2:1-10

本書には、教会のあるべき姿、クリスチャンの姿が描かれているが、特に本章には、私たちが救われたとはどういうことかが、絵に描いたように記されている。

1.私たちはどのような者だったか

前章最後には、栄光に輝く教会の姿がある(1:22,23)。しかし、その素材は粗悪なものだった。罪過と罪とによって死んでいた私たちがその素材だ(2:1-3)。

まず私たちは、罪に死んでいた者だった。魂が罪のために滅びゆく者だったのだ(ロマ6:23)。具体的には、この世の流れに流され、サタンに支配され、肉の欲の命じるままに生きていた者で、生まれながら神の御怒りを受けるべき存在だった。

私たちは神との契約を表す割礼がなく、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、希望もなく、神もない者、つまり神の一切の祝福に縁がない者だった(11,12節)。

これが栄光ある教会の素材だ。なんという粗悪なものか。しかし、神はこんな私たちを、神の教会の素材に選ばれたのだ。

2.神は何をしてくださったか

「しかし」(4節)神は、死んでいた私たちを、キリストと共に、つまりキリストによって生かしてくださった。これがキリストの十字架の血による贖い、背きの罪の赦しだ(1:7)。これは、私たちの業によらず、恵みによるものであり、信仰によるものだ(5節 ロマ3:24)。

私たちの過去の罪は、主の十字架によって赦された。しかし、はっきりと救われた魂は、しばらくすると自分の醜さが見えてくる。自我とか肉とか古き人とか言われるものだ。主の血はそれをも潔める。6節に「キリスト・イエスにあって、…ともによみがえらせ」とある。よみがえるのは生きている者ではなく死んだ者だから、間に死がある。それが自我の死だ。

救われてもまだ神に喜ばれない己の真相に気がつき、こんな自分は嫌だと思い、砕かれた魂で主の前に出て十字架を仰いで、そこに古き人を信仰をもって付け、己に対して死ぬ。そして、待ち望んだ魂にキリストが臨まれる(ガラ2:19,20)。よみがえられた主がわが内に生きておられるという信仰に啓かれるのだ。これが「ともによみがえらせ」ということであり、「共に天の処に座せしめ給えり」(6節文語)という恵みだ。地上に生きながら、魂の居場所は天の処だ。

神は、豊かな憐れみと大いなる愛によって、そのようにしてくださる。神の動機は憐れみと愛だ。そこには、十字架の血の功という法的な手続きがとられている。この恵みを、信仰によって自分のものにしたい。

3.私たちはいかに生きていくべきか

神の作品として、良い行いをして日を過ごしていくのだ(10節)。ただ善行に励むようになるという程度ではない。主の御心にどこまでも従い続けるということだ。

作品とは傑作品のことだ。素材は粗悪だったが、陶器師の腕が良かった(イザ64:8)。器は陶器師の思いのままに造られる(エレ18:4,6)。陶器師なる主が私たちを造り給うた。神の作品は、神の御心にいつも従順であるはずだ。いつでも何でも、ただ神に喜んで従う、これが「キリスト・イエスにあって造られた」者、救いと聖潔(きよめ)の全き贖いの恵みによって新創造された者だ(Ⅱコリ5:17)。

私たちも神の作品としてあらかじめ備えられている。そうあってほしいという神の重荷だ。神はそのために御子を献げてくださった。再臨の主の前に立たせていただくために、キリストにあって造られた者として歩みつつ、備えていきたい。

午後には教会総会がもたれる。キリストにある新創造の御業をいただいた私たちが、組み合わされてキリストの体なる教会が建て上げられ、前進して行きたい。