火をもって答える神
Ⅰ列王記18:20-24,30-39
本日はペンテコステ記念日だ。2000年前に、エルサレムで待ち望んでいた人々に約束の聖霊が降られた。聖霊の傾注は、旧約時代からの預言の成就だったが、実は旧約の歴史の中に聖霊の注ぎの予表があった。その一つが、預言者エリヤが天から火を呼び下した出来事だ。
当時北イスラエル王国を治めていたアハブ王は、異邦人の妻イゼベルの影響を受けて、バアル崇拝を取り入れて民に強要し、イスラエルは暗黒時代を迎えた。そのような状況で、エリヤが主によって預言者として立てられた。彼の使命は、アハブに惑わされた民に、主こそ真の神たることを知らせることだった。
そのためには、戦いが必要だった。彼は王に挑戦状を突きつけ(19節)、バアルの預言者450人と対決しようとした。決戦の日、カルメル山に多くの人が詰めかけた。敵は450人、当方はエリヤ1人、勝ち目はない。しかし彼はものおじせず、泰然自若(たいぜんじじゃく)として立っていた。彼は神が味方だという確信に立っていた(ロマ8:31)。
彼は「火をもて応うる神を神と為すべし」(24節文語)と言い放った。そう言う彼には論理的に裏づける確信があった。昔、神が火をもって答えられた事実があったのだ(レビ9:24、Ⅰ歴代21:26、Ⅱ歴代7:1)。昔も今も変わらない神は、必ず火をもって答えられると確信したのだ。
戦闘が開始された。まずバアルの預言者から始めた。彼らがどんなに懸命(けんめい)に祈っても、バアルの神から応答はなかった。偶像が答えないのは当然だった。エリヤの番になった。彼は入念に準備をした。祭壇を築き直し、溝を掘って水を掛けて、人の手では火が付くはずはない状態にした。神自ら火を付け給うとの確信があったからだ。
準備が完了し、彼は短く的確に祈った(36,37節)。彼は、ただ民のためにと祈った。この戦いは、民の悔い改めと救いのためだという目的がはっきりしていた。この祈りに、神は直ちに答えられ、天より火が下った(38節)。民は悔い改めに導かれた(39節)。エリヤの勝利だ。神は彼の信仰に答えられた。
エリヤの神は私たちの神だ。神は私たちの祈りに答えて、聖霊の火を下される。私たちの罪・汚れを焼き尽くし、潔めてくださる聖霊の火だ。神は焼き尽くす火だ(ヘブ12:29)。
聖霊の火は十字架を通して下る。信仰をもって自我を十字架に付けた魂に、聖霊の火は下る。この火を下していただくのに、ぼんやり待つのではない。祭壇を築き直し、その上に犠牲を乗せなければならない。キリストの十字架を信じる信仰を立て直し、自分自身を献げるのだ。全て献げ尽くして虚(むな)しくなった魂に、キリストが内に生きてくださるという信仰が与えられる。これが聖霊の火が降るということだ。
エリヤは、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか」(21節)と迫った。これは私たちへの主の挑戦だ。世と神という二心の歩みをやめ、きっぱりと主につきたい。自我と肉とこの世から聖別された、キリスト・イエスに属する者になりたい。そのために聖霊の火をいただきたい。御言葉に従うことから離れずに、静かに待ち望もう。ペンテコステの火は必ず下る。