ペンテコステ前夜
使徒1:3-14
来週はペンテコステ記念日だ。ペンテコステはクリスマス、イースター同様、重要な記念日だ。その日がなかったら教会は存在しなかった。2000年前、待ち望んでいた人々の上に聖霊が下られた(2:1-4)。その日3000人が救われ、教会が誕生した。世界で最初のキリスト教会だ。
それは偶発的な出来事ではなかった。2章1節に「五旬節の日になって」とあるが、神の設定された時、人々の魂の準備の時が満期になって、聖霊が臨まれたのだ。ペンテコステは教会に与えられた神の御業であり、同時に魂の個人的な体験だ。
聖霊は、イエスから聞いていた弟子たちへの神の約束だった(4節)。彼らは、イエスが十字架にかかられる前夜、最後の晩餐の席上でその約束を聞いた(ヨハ14:16)。そして彼らはエルサレムに留まって待ち望んだ。神は約束を果たされた。ペンテコステの日に聖霊が来られたのだ。
聖霊が臨んだとは、ただ彼らに力が与えられただけではない。彼ら一人一人の内にキリストが住み、生き、働き出されたのだ。内なる全ての汚れ、肉、自己中心な自我一切を十字架につけ、信じて待ち望む魂にキリストが内に生き給うという信仰に啓かれる。私たちもこの恵みをいただきたい。
この恵みは、誰に与えられるか。第一に、救われたクリスチャンに与えられる。主は私たちの罪のために十字架にかかられた。その十字架の上で、主は「わが神、わが神…」と叫ばれた。罪なき神の子が神から捨てられたのは、罪のために捨てられるべき私たちが捨てられないためだ。罪を悔い改め、十字架を信じて、罪の赦しの救いを頂くことができる。
第二に、自分の真相が分かったクリスチャンに与えられる。明確に救われた魂は、御言葉の光に照らされれば、やがて自己の姿に気がつく。愛せない、従えない、献げられない、突き詰めれば己が一番可愛いという自己中心性だ。何と醜い、神の御心にほど遠い者かが分かるはずだ。そこから聖くされたいという渇きが起こされる。二階座敷に集まった者たちは、語られるメッセージによって光が当てられ、自らの弱さ、醜さ、傲慢さ、強情さがあらわにされ、砕かれたに違いない。砕かれることが大切だ(詩51:17)。
第三に、キリストを信じたクリスチャンに与えられる。自己の真相が分からせられ、砕かれた彼らは、十字架を仰いだことだろう。救いが完成されている十字架を仰ぎ、醜い自我はキリストと共に十字架に付けられていると信じて決算した魂に、聖霊が臨まれる。
主は「あなたがたは力を受けます」と言われた。どういう力か。①主を愛し、主に従う力だ。もはや自分のために生きるのではなく、自分を愛し、自分のために死んでよみがえられた主を愛し、主のために生きる者とされたい(2コリ5:15)。②信じて祈りぬく力だ。不可能と思える事でも、為し給う全能の神を信じて祈るのだ(ヨハ15:16、ヤコ5:16)。③主を証ししていく力だ。どのような困難なところでも、自分を愛して救ってくださった主を大胆に証ししていく者となりたい。言葉で証しできなくても、存在そのものが証しになる(ヨハ12:9)。
力を頂きたい。力のない弱々しいままではなく、何ものにも勝って主を愛し、どこまでも主に従い、福音を証ししていく者になりたい。
そのためにはエルサレムから離れてはならない。御言葉が語られている所に出続けよう。主のもとに座そう。一人主の前に出よう。
世の終わりは近づいている。福音が全世界に宣べ伝えられてから終わりは来るとイエスは言われた(マタ24:14)。聖霊を頂き、聖霊に押し出されて、福音を地に満たしていく者となりたい。
ペンテコステの前週、いわばペンテコステ前夜だ。この1週間、主の前に静まりたい。