礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.05.22

主の御顔を慕い求める者

詩篇24:1-10

本日の箇所は3つのパートに分かれる。1-2節、3-6節、7-10節だ。中心聖句6節にある神の「御顔を慕い求める」ことを鍵として、それぞれのパートで神からのメッセージを受け取ることができる。

パート1(1,2節)のテーマは、神を知ることだ。ただ頭で知っているということではなく、神の与える救いに与り、心の中に基礎を据えていただくことだ。神は、ご自分のことを私たち人類に啓示しておられる。それは、私たちにご自分を求めさせるためだ。私たちは、本来神のかたちに創造された。だから、たとえ手探りであっても、神を求めるならば、私たちは神のご存在の一片を見出すことができるかもしれない。神はそれほど私たちのすぐ近くにいてくださるからだ(使17:26,27)。

しかし、私たちのほうは、罪のために、本来の神のかたちが壊され、神から遠く離れてしまった存在だ。神の用意してくださっている祝福をいただくことができず、そのままでは滅びる運命だ。そんな私たちのために神の御子キリストが神から遣わされ、十字架と復活による救いの道を私たちに開いてくださった。キリストを信じる者は、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。遠く離れていた神との関係は回復され、私たちは神の御前を歩む者となる(コロ1:21,22)。これが「救いの神から義を受ける」(5節)ということだ。このように、私たちは、まずこの救いという基礎を据えていただきたい。

パート2(3-6節)のテーマは、神の御顔を求めることだ。つまり、神の御心を求めることであり、私たちがそれにふさわしい、きよい者となるということだ。キリストの救いに与り、義とされた者は、「主の山に登り」(3節)、「聖なる御前に立」(3節)つ資格を与えられ、神の御心を求める生き方を始めていただく。しかし、明確な救いをいただいた者は必ず、やがて自己の真相に突き当たる。相変わらず、世にある「むなしいもの」(4節, 英訳では偶像)へ心が向いている現実があることに気がつく(出20:3, ヨナ2:8)。また、「偽りの誓い」(4節)をしている、つまり、クリスチャンだと言いながら、汚れを抱え、神の御心よりも自分を押し通して生きている己の姿に気がつく(エレ5:2, イザ48:1, テト1:16a)。

そうした肉に気がつき、神の御前に出て、神に助けを求めるとき、その肉を十字架につけるよう導かれる。私たちが、その通りに肉を十字架につけて始末するならば、キリストが内に臨んでくださり、私たちの内にキリストが生きてくださる(ガラ5:24, 2:19,20a)。私たちは、真の意味で、手がきよい者、心の澄んだ者となることができる。私たちは、内に生きてくださるキリストを通して、神の御心を求める者となる。神の御心を求める者は、神の御前で神の「祝福を受け」(5節)ることができる(詩84:5-7)。このように、私たちは、神の御顔を慕い求め、神の祝福の下を生きる者となりたい。

パート3(7-10節)のテーマは、神に戦っていただくことだ。敵に勝利をとってくださる神によって、私たちも勝利者とならせていただくことだ。明確な救いをいただき、信仰に固く立とうとする者に、敵は戦いを仕掛けてくる。信仰を揺さぶり、救いを否定しようとしてくる。目をくらまし、キリストを見えなくしてくる。しかし、私たちの救い主であり、私たちの内に臨んでくださるキリストは、「戦いに力ある主」(8節)だ。いつも私たちのただ中にいてくださり、私たちのために戦ってくださる勇士だ(ゼパ3:17a)。

どんなに難攻不落と言われる要塞でも、門が弱ければ、容易く攻められ、落とされる。キリストは、私たちの門を強固にしてくださる(詩147:13)。だから、私たちはしっかりと門を「上げ」(7節)、勝利をとって戦いから戻ってこられるキリストを迎え入れることができる。これが神の御顔を慕い求める者の生き方だ(1ヨハ5:4)。このような生き方を私たちもさせていただきたい。

「絶えず御顔を慕い求めよ」(詩105:4)と、神は私たちに語っておられる。私たちも、神の御顔を慕い求める者となりたい。