ただこの一事を務む
ピリピ3:1-16
本章のキーワードである「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさ…」(8節)は、口語訳では「キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」だ。この価値は礼拝の場で得ることができる。主を知る価値は、御言葉によって示される。だから礼拝が大切なのだ。礼拝は私たちの命だ。昔の聖徒は命がけで礼拝を守った。
3節に真の礼拝者の姿が示されている。真の礼拝者とは、第一に「神の御霊によって礼拝」する者だ。形式的、儀礼的な礼拝ではなく、死んだ偶像を礼拝するのではなく、聖霊によって、生きて働き給う主を礼拝するのだ。神は霊なるお方だから、こちらも神の御霊によって礼拝するのだ(ヨハ4:24)。
第二に「キリスト・イエスを誇」る者だ。熱心な自分や忠実な自分を自慢するのではない。キリストご自身を喜びとするのだ。学歴、人生経験、成功実績などではなく、キリストを誇るのだ。私を愛し、私のためにご自身を十字架上にお献げになった主を誇るのだ。
第三に「肉に頼らない」者だ。自分の力に依り頼まず、肉には信頼を置かず、ただイエスのみに信頼するのだ。自己不信頼と神への絶対的信頼だ。こういう礼拝の中で主を知ることのすばらしさ、知識の価値の絶大さを知ることができる。
パウロは長年その価値を知らなかった。彼はかつては肉的なもの、人間的なものを頼みとしていた(4-6節)。しかし復活の主に出会って、彼の誇りとしていた一切が崩壊した。彼は価値観の大転換を経験した(8節)。その新しい価値は、有益だった一切を塵芥(ちりあくた)と思わせるほど絶大だった。それは、キリストを得ること(8節)、つまり主の死とよみがえりに合わせられるという恵みのことだった(10節)。
キリストの贖いは、不義そのものであった私たちを、ご自身の血潮をもって罪を赦し、義とするばかりではなく、自我の塊のような私たちを血潮をもって潔めるものだ。私たちが自分の内の古き人を十字架につけて己に死ぬなら、キリストが私の内に生きてくださるという全き贖いを主は与えてくださる(ガラ2:19,20)。この恵みが、他の一切を塵芥として捨てさせる絶大な価値を持っている。
なぜなら、キリストを得るとは、キリストのごとくなることだからだ。キリストがいつもただ御旨にのみ従われたように(詩40:8、ヨハ5:19、8:29)、また、キリストが十字架の死に至るまで神の御心に従順であられたように(ルカ22:42、ピリ2:6-8)、私たちもそのように生きる者となれるのだ。だから絶大な価値だ。謙虚に真摯に求めるなら、この絶大な価値は我がものになる。
「ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし」(13節)とパウロは言う。後のものを忘れるとは、今までの神の恵みを忘れるのではなく、かつて価値を置いてきたもの、人間的なものへの信頼、肉の頼みときっぱりと決別することだ。前のものとは、神が私たちのために備えてくださる上よりの栄冠だ(14節)。再臨の日に主と同じ栄光の姿に変えられる希望、すなわち栄化の望みだ。これをひたすら求めていくのだ。そのために、キリストがわが内に生き給うという信仰に明確に啓かれた者になりたい。
前のものを求めて、ひたむきに走り続けたい。「唯この一事を務む」(文語)とあるように、他のものには見向きもしないという姿勢で追求したい。そのためにはどんな犠牲もいとわないという覚悟が必要だ(マタ13:44-46)。犠牲を払うことを惜しむなら、絶大な価値を知らずに終わってしまう。
神は御子の十字架の贖いによって、この新しい価値を私たちに示された。まことの礼拝者として御前に出て、この御方をいただく一事のために前進しよう。