神の栄光が現れるため
2コリント4:1-18
本日の中心聖句は15節だ。ここに、神が私たちに与えてくださる救いとあらゆる恵みの目的がある。それはまず、私たちのためだ。私たちが、キリストによって、罪と滅びから解放され、信仰による平安と希望と確信を持って生き、終わりの日に神の御前に立つためだ。だが同時に、私たちを通して、神の栄光が現れるためでもある。
本日の箇所の中に、「栄光」という言葉が3回使われている。「神のかたちであるキリストの栄光」(4節)、「キリストの御顔にある神の栄光」(6節)、そして「神の栄光」(15節)だ。キリストは、神のかたちであられ、神の栄光を輝かせるお方だ(コロ1:15, ヘブ1:3a, ヨハ17:24)。
私たちもまた、本来、神のかたちとして、神の栄光を現すために、神に創造された存在だった(創1:27)。しかし、罪のために神のかたちは壊され、私たちは神の栄光を受けることのできない者として(ロマ3:23)、滅びる存在となった(ロマ6:23)。そんな私たちを滅びから救い出すために、キリストが神の元から遣わされた。天地創造の初め、闇の中に光を創造された神(創1:3)は、今度は私たちの闇の中にキリストという光を与えてくださった(6節, ヨハ1:9, 8:12)。
キリストは、十字架と復活によって、私たちのために救いを成し遂げてくださった。キリストを信じることで、私たちは罪を赦され、滅びから救われる。闇から光へと移される(ヨハ12:46, エペ5:8, 1テサ5:5)。光と闇が決して交わらないように、私たちもキリストの救いを明確にいただくことが必要だ。
このようにしてキリストの救いに入れていただいた私たちは、壊されていた神のかたちが回復され、神の栄光を現す特権が与えられた者となることができる。だから、いつもキリストの光を慕い、与えていただいた特権を喜び、それにふさわしく生きたいと願う(ルカ11:34-36)。だが、気をつけていないと、私たちを闇の中に戻そうとする力も働く。世と世にあるものが、私たちの思いを暗くして、信仰から引き離そうとしてくる(4)。背後にいるのは、この世の支配者サタンだ(エペ6:12)。サタンの狙いは、私たちが盲目になり、せっかく与えていただいた神の栄光を現す特権を放棄し、踏みにじるようになることだ(ロマ1:21)。だから、私たちはいつも目を覚まし、サタンを見破ることが必要だ(1ペテ5:8, 2コリ11:14)。
キリストの光の内にとどまり、神の栄光を現す特権にふさわしく歩もうとする者は、やがて必ず、自らの真相に突き当たる。ふさわしく歩もうとしても、そうすることのできない実態に気がつく。神に喜ばれないとわかりながらも、欲や情や主義主張を最優先させる己、外側は敬虔そうに、清らかそうに、慎ましげに取り繕いながらも、実は、傲慢と汚れと強欲に満ちている内側、神の御心を求めると言いながらも、実際には、自分の願望と満足と幸せを一心に求めている本性。肉と呼ばれる罪の性質だ(ロマ8:5-8)。
これでは神の栄光を現すことなど、とてもできない。この肉を、キリストと共に十字架につけて始末するならば(ガラ5:24)、キリストが臨んでくださり、内に生きてくださる(ガラ2:19,20)。私たちを聖なる神の宮として、キリストが住んでくださる。この内住のキリストによって、私たちは神の栄光を現すことができる(1コリ6:19,20)。そして、信仰がなおも成長し、「主と同じかたち」へとならせていただく(2コリ3:18, コロ3:10b)。
このように、すべてのことは、私たちのためであり、神の栄光が現れるためなのだ(15節)。私たちも、キリストの救いをいただき、救いにとどまり、さらに、内にキリストに生きていただいて、神の栄光を現す者となりたい。