キリストを迎える者
ヨハネ12:12-16
本日は棕櫚の主日だ。四福音書全てにこの記述が収められているが、少しずつ視点が異なる。入城するキリストに向かって、賛美の声を挙げた人々に目を留めたい。マタイとマルコは、イエスの前を行く者たちと後に続く者たちとなっており(マタ21:9, マル11:9,10)、キリストと共に歩む者たちに焦点が当てられている。ルカは、イエスの力あるわざを見た弟子たちとされている(ルカ19:37,38)。キリストのみわざを目撃し、体験し、弟子として従う者たちということだ。そして、ヨハネには、イエスを「迎えに出て行」(13)った「大勢の群衆」(12)とある。キリストを迎えるとは、私たちにとってはどういうことか。
まず、キリストを迎えるとは、キリストの救いを始めていただくことだ。キリストが十字架にかかって苦しみ、死なれたのは、私たちを滅びから救うためだった。私たちは、罪のために神から離れ、永遠の滅びが定まっていた。しかし、キリストが、本来は罪人の私たちがかからなければならなかった十字架に、身代わりにかかってくださった。このキリストの十字架を信じる者は、罪を赦され、滅びから救われ、永遠の命をいただくことができる。私たちがキリストを信じ、心にキリストを迎えるならば、救いが私たちの中に始まる。キリストは私たちの心の扉を叩いておられる(黙3:20)。ザアカイは、喜んでキリストを迎えたから(ルカ19:6)、その家に救いが始まった(ルカ19:9)。私たちもキリストを信じて心に迎え、救いを始めていただきたい。
次に、キリストを迎えるとは、キリストに内側を取り扱っていただくことだ。キリストの十字架の救いを明確にいただいた者は必ず、救われた後も内側に残る汚れに気が付く。救われていても私たちの内側は、罪を犯してしまう肉に満ちている。外側はきれいに装っていても、内側はどろどろした汚れで満ちている。悪霊につかれたゲラサ人の姿は、そんな私たちの本性と重なる。しかし、彼はイエスを迎えた(ルカ8:27)。だから、悪霊を追い出していただき、正気に戻していただいた。また、マルタは、妹マリアへの不満をイエスから取り扱っていただいた(ルカ10:41,42)が、そのきっかけはイエスを家に迎え入れたことだった(ルカ10:38)。私たちも、キリストを迎え、キリストに内側を照らしていただくならば、本性を取り扱っていただくことができる。
そして、キリストを迎えるとは、キリストに内側に住んでいただくことだ。私たちが内側の汚れを十字架につけて始末するならば、キリストが内に臨んでくださる。キリストを迎えるならば、キリストは私たちの内に入り、働いてくださる。弟子たちがイエスを舟に迎えた時、あれほど嵐に立ち往生していた舟はすぐに目的地に着いた(ヨハ6:21)。先述のゲラサ人のまわりに住んでいた人々は、イエスに会いに出てきたが、自分たちのところを立ち去ってほしいと懇願した(マタ8:34)。彼らは、失った豚のほうを惜しんだのだ。私たちも、始末すべき肉を惜しむならば、キリストを迎えることはできない。
さらに、キリストを迎えるとは、再臨のキリストの前に立てる者となることだ。キリストがやがてもう一度地上に来られた時、キリストを迎えに出て、キリストの前に立つことができるならば、私たちはキリストと共に引き上げられる。迎えるためには、備えができていなければならない。いつ来られるかわからないキリストを、いつでも迎えることができるように備えていなければならない(マタ25:1,10)。ヨハネの黙示録には、神と子羊の前に立つ人々の姿が描かれている(7:9,10)。彼らは、手になつめ椰子の枝を持ち、大声で賛美している。エルサレム入城を迎えた人々の姿は、この型だった。なつめ椰子は、神の前の正しさを象徴している(詩92:12-15)。キリストの救いに与り、罪の解決をいただき、さらに汚れを始末して、内からキリストに働いていただく者こそが、神の前に正しい者として、なつめ椰子の枝を持つことができる。そして、神とキリストの前に立てるという備えのできた者として、この地上を歩むことができる。
本日から始まる受難週、私たちは自らの魂がどうあるのかを深く省み、主の前に出たい。そして、キリストを迎える者となっているかを主から問うていただきたい。