十字架の上のイエス
ルカ23:32-43
イエスはろばの子に乗ってエルサレムに入城された(次週が棕櫚の主日)。目的は私たちの贖いのために十字架にかかることだった。
ここに死ぬべき人が三人登場する。イエスと二人の犯罪人だ。それぞれ十字架につけられた。イエスは、頭に茨の冠がかぶせられ、両手、両足は釘付けにされ、血が絶え間なく流れ出す。すでに憔悴(しょうすい)しきっておられる。ここまで重い十字架を背負って歩いて来られた。前夜に逮捕され、一晩中裁判をたらい回しにされ、一睡もせず、食物も水も与えられなかった。罵られ、嘲られ、平手で打たれ、鞭打たれて、疲労の極限に達しておられた。
イエスは、神の国の福音を伝えて来られた。御言葉は人々の心を捉え、慰めと励ましと希望を与えた。病人や体の不自由な人々は癒され、悪霊に悩む人々は解放された。どれほど多くの人々が、イエスによって慰められ、救われたことか。
しかし、指導的立場のパリサイ人、律法学者、祭司長たちはイエスを妬んだ。自分たちの立場の危機を感じ、イエス抹殺を図った。彼らはゲッセマネの園で、闇夜に乗じてイエスを逮捕した。
私たちと同じ人間となられたイエスだが、罪を犯さないお方だった(1ペテ2:22)。罵(ののし)られても罵り返さず、黙々と十字架についていかれた(イザ53:7)。それどころか、苦しい十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください…」(34節)と祈られた。まさに殺そうとしている兵士たちのために、心から祈られたのだ。何と愚にもつかぬ生き様、死に様かと思う者もあろう。しかし、これがキリストの姿だった。
そして、このキリス卜によって私たちは罪から救われるのだ(イザ53:5)。「彼らを赦し給え」という彼らとは、当時のローマ兵たちだけでなく、ユダヤ人指導者、罵り続ける群衆、さらに私たちをも含む。実は主は、私たちのために祈られたのだ。
こういうイエスの姿を見ていたのが十字架に共につけられた犯罪人の一人だ。彼は、十字架に付けられるほどの極悪人で、他の一人と一緒にイエスを罵倒していた。しかし途中で彼は、はたと口をつぐんだはずだ。彼はイエスの姿を見てきた。ピラトの前で裁かれても自己弁護せず、黙々と十字架を背負われた。それだけでもただ者ではないのに、ついに相手を赦された。罪なき御方でなければ、こうはできないと思ったはずだ。
彼は、イエスの崇高さ、聖さに触れて、初めて自分の醜い姿がわかった。「イエス様、あなたが御国に…」(42節)とは、彼の悔い改めと信仰の言葉だ。彼が信じたイエスは、何も奇跡を行わないお方、自分をも救い得ない無力なイエスだった。彼は最も信じにくい状況の中で信じた。イエスは彼に「あなたは今日、わたしとともに…」(43節)と言われた。罪の赦しの宣言と天国の約束だ。彼が救われたのは、ただ信仰によったのだ。砕かれた心で罪を悔い改め、素直にイエスを信じた魂に、救いが与えられたのだ。
罪の問題が解決されたら、死の問題も解決する。この三日後にイエスは死の中から復活された。信じる者によみがえりの希望が与えられるのだ。
十字架に付けられたキリストこそ私たちの救い主だ。今もイエスは「父よ、彼らを…」と、ご自身の血を示して私たちの罪の赦しを父に求め給う。私たちを救い得るのは、このお方以外にない(使徒4:12)。この恵みをいただこう。あなたのために備えられた救いだ。信じて受け取ろう。