礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.03.27

死は勝ちに呑まれたり

1コリント15:50-58

58節は、励ましと慰めに満ちた御言葉だ。これは、死人のよみがえりの論述の中で語られた。

コリント教会が抱える様々な問題の中に、復活の問題があった。キリストの復活と終末の死人の復活の問題だ。復活の問題は奥義だ(51節)。その奥義とは何か。

私たちは、終わりのラッパの響きと共に、一瞬にして朽ちない姿に変えられる。私たちの肉体は、朽ち果てるものだ。病み、傷つき、機能が衰え、障碍(しょうがい)が生じる。それが、主と同じ栄光の姿に変えられるのだ(ピリ3:21)。それが栄光の朝の希望だ。

人はみな死なねばならない。それは、最初の人アダムが罪を犯したことに起因する(創3:17—19)。科学や医学の進歩も、死を克服することはできなかった。しかしパウロは「死は勝利に呑み込まれた」(54節)と宣言する。これは、人間最後の敵である死に対する勝利宣言だ。キリストの復活によって死のとげは抜き去られた(57節)。キリストは眠った者の初穂(その年の初めての献げ物)として復活された(20節)。私たちもキリストに続く者になれる。これが栄化の望みだ。

ただし、条件がある。パウロは「血肉のからだは神の国を相続できません…」(50節)と述べる。今のこの肉体のままでは神の国に入ることができない、というだけではない。私たちの魂のことを言っている。救われた魂が神の国を継ぐことができるのだ。

救いとは、罪からの救いだ。神のかたちに創造された私たち人間(創1:27)は、罪を犯して神から離れた。その結果、私たちは滅びなければならない者となった(ロマ6:23a)。しかし、憐れみ深い神は、私たちが滅びるのを見るに忍びないと思われ、御子キリストを遣わされた。罪なき神の御子キリストは、十字架にかかって神から捨てられた。罪のため神から捨てられるはずの私たちの身代わりとなられたのだ。

このキリストを信じる者は、誰でも罪が赦され救われる。キリストは三日目に墓から復活された。このキリストを信じる者に、永遠のいのち、天国の希望が与えられる。これが救いの始まりだ(ロマ6:23b)。

キリストは、世の終わりに再臨される。救われた者を神の御国に迎えるためだ。その時、私たちは一瞬のうちに、主と同じ栄光の姿に変えられる(52節)。これは信じる者にとって最大の希望だ。

その時「死は勝利に呑み込まれた」という御言葉が実現する。キリストは、復活して既に死に勝たれた。私たちがその主と同じ姿に変えられるとき、御言葉が私たちの上に完全に実現するのだ。

だから、主のわざに励むことができる(58節)。すなわち、神の御心に沿った歩みをなし(詩40:8)、福音を証しし(マル16:15)、天に備えられた住まいを目指して進んで行くのだ(ヨハ14:2,3)。

私たちの労苦は無駄にならない(58節)。主から賜る報いがある。主は私たちのわざを覚えていてくださる。だから「堅く立って、動かされることなく」歩んでいくことができる。キリストの救いをいただき、いつも主を信じる信仰に堅く立ち、主のわざに熱心な者にならせていただこう。