主のしもべ
イザヤ42:1-9
本日の箇所は、“主のしもべ”についての預言と呼ばれている箇所の一つだ。主のしもべとは、まずキリストのことだ。キリストは主のしもべとして神から遣わされた(ピリ2:6-8, 使徒3:26)。イエス自身がご自分のことをそのように語っておられる(ルカ4:16-21, イザ61:1-3)。だが、主のしもべとは、神が私たちに求めておられる姿でもある。では、私たちが主のしもべとなるための条件は何か。本日の箇所から、3点に絞って教えられたい。
- 選び
「わたしの選んだ者」(1節)とある。主のしもべは神から選ばれている。選びとは、私たちにとっては救いを意味する。まずキリストが神から選ばれ、私たちのもとに遣わされ、私たちに十字架と復活の救いを与えてくださった(1ペテ2:4,6)。キリストの十字架と復活を信じた者は誰でも、罪の赦しと滅びからの救いをいただき、神から選ばれた者となる(ヨハ15:16)。私たちに何か選ばれる資格があったのか。いや、私たちには本来選んでいただく値打ちなど何もなかった。「無に等しい」(1コリ1:27,28)私たちが「あえて」(同口語訳)選ばれるという、神の計り知れないご計画と恵みによることだった(2テモ1:9a)。
- さばき
「さばきを行う」(1節)、さらに「さばきを執り行う」(3節)、「確立する」(4節)とある。主のしもべは神のさばきを行うために遣わされる。さばきとは、神の御心を示して遂行すること、神の定めを明示することだ。さばきによって、罪と汚れから離れず、神に背き続ける者と、罪と汚れから離れ、神に立ち返る者とがはっきりと区別される。
キリストは神のさばきを実現するために私たちの元に遣わされた(ヨハ9:39)。それは、キリストご自身が神の御心に全く従っておられたからだ(ヨハ5:30)。神に選ばれた主のしもべは、必ず自らの姿が神の御心に合致するかどうかを計られる。神に選ばれたイスラエルの民にとっては、神から与えられた律法のことであり(レビ18:4,5)、キリストの救いをいただいた私たちにとっては、神の取り扱いのことだ。私たちは神の取り扱いによって、神の御心に自らが合致するのかに光が当てられる(エペ5:8-10,13)。そして自らの内側に残る、神に喜ばれない肉が示され、汚れた本性が悟らせられる。こうして、私たちはキリストの十字架に汚れを共につけて始末するようにと導かれる。
- 神の霊
「わたしの霊を授け」(1節)とある。主のしもべは神の霊が授けられる。キリストがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、御霊が降られた(マタ3:16)。私たちにとっては、聖霊による刷新、すなわち内住のキリストを指す。私たちが汚れを十字架に始末したところにキリストが臨んでくださり、内にお住みくださる(イザ12:3-6. 4:2-6)。御霊によって生まれた者として、キリストと共に生きる者となる(ヨハ3:6, ロマ8:11)。キリストが神から声をかけられたように(マタ3:17)、神に喜んでいただける者として歩むことができる(1節)。
私たちも主のしもべとして歩む者になりたい。そして、最後のときに「良い忠実なしもべだ」(マタ25:21)と声をかけていただく者となりたい。