目を覚ましていなさい
マタイ25:1-13
24章で、イエスは世の終わりの前兆について語られた。きっかけは弟子たちが主の注意を神殿に向けさせたことだ(24:1)。イエスは神殿の崩壊を予告され(24:2)、驚いた弟子たちはその時について尋ねた(24:3)。そこで主は終末の前兆を述べられた(24:4,5)。
25章で主は天の御国について、二つの譬えを用いて語られた。賢い娘たちと愚かな娘たちの譬え(1-13節)と、タラントの譬え(13-30節)だ。ここでイエスは、主の再臨の時にどういう事が起こるか、どういう状態になるかを述べられた。
その譬えの一つは、十人の娘の譬えだ。結婚式の形態として、花婿が花嫁を訪ね、一緒に婚宴の席に着くのが当時の風習だった。ここで 花婿の到着が遅れた。待ちわびた娘たちはつい居眠りをしてしまった。突如、花婿が到着し、油を準備していた五人の賢い娘たちだけ迎えられた。そのような譬えだ。
まず、賢い娘たちも愚かな娘たちも、ともしびを持っていた(1節)。これを私たちにあてはめれば、十字架によって救われているということ、光の中に入れられているということだ。私たちはかつては闇の中にいた。しかし、十字架の贖いにより、驚くべきみ光に入れていただいた(1ペテ2:9)。
また、賢い娘たちも愚かな娘たちも居眠りをしてしまった(5節)。花婿の到着はそれほど遅れたのだ。ここで私たちは、主の到来の時がいつなのか分からないことを知っておかなければならない(24:36)。
さらには、賢い娘たちも愚かな娘たちも、花婿到来の声を聞いた(6節)。主の再臨は誰にでも分かるようにされているのだ(24:30)。
以上のように、賢い娘たちと愚かな娘たちには、共通点がある。しかし、明らかに違う点がある。まず賢い娘たちは油を十分備えていた(3節)。油とは聖霊の油のことだ。救われただけではなく、御霊に満たされた者になることだ。肉は十字架に始末され、キリストが内住しておられるという信仰で生きる、聖霊に導かれる者にされたい。
愚かな娘たちは、賢い娘たちから油を分けてもらおうとした(8節)。しかし彼女たちの願いは断られた。聖霊の恵みは人から分けてもらうものではなく、直接主から頂くべきものだ。自ら主の前に出て、献げるべきものを献げ、十字架を仰ぐなら、主が恵みを与えてくださる(ルカ11:13)。
賢い娘たちと愚かな娘たちの決定的に違う点は、前者は婚宴の席に迎えられ、後者は締め出されたことだ(10-12節)。「戸が閉じられた」(10節)、「私はあなたがたを知りません」(12節)とは厳粛だ。
私たちは賢い娘になりたい。聖霊に満たされた者、キリストを内にいただいた者になって、花婿に迎えられる者になりたい。そのためには目を覚ましていなければならない(13節)。
目を覚ましているとは。(1)自分の立ち位置が分かっていること。自分はキリストの血で贖われた者であるという自覚を持ち、この世では旅人・寄留者であると弁え、聖別された者として歩みたい。(2)目指すところが何かを明確にしていること。天の御国の希望を確かにし、主とお会いする栄光の朝を待ち望みたい。(3)この世でどのように歩むべきかを弁えること。私を愛してくださった主を愛し、礼拝を重んじ、喜んで御言葉に従う歩みをしたい。
サタンによって目がくらまされてはならない。彼から目つぶしを食らってはならない。主から目薬を買い(黙3:18)、明瞭に見える者となって、主を待ち望みつつ、世の終わりを生きよう。