恵みによる主の選び
ヨハネ15:1-17
16節は、私たちへの励ましの御言葉だ。私たちは主に選ばれた。こんな私たちが選ばれたのは、ただ恵みによる。
神は私たちを「世の基を置かざりし先より」(エペ1:4元訳)、つまり天地創造の以前から、キリストの十字架の贖いによって、私たちを選んでくださった。私たちの罪のために、罪を知らない神の子が十字架にかかり、最大の愛を現された(13節)。罪の悔い改めと十字架を信じる信仰によって、私たちに赦罪と義認が与えられる。この救いが、実は天上で永遠の初めから計画されていたとは、驚くべきことだ。
この尊い選びの目的は、私たちがいつまでも残る実を結ぶこと、また祈りが応えられる生涯を送ることだ。
1.結実のため
イエスはぶどうの木と枝のたとえを語られた(1-6節)。主は「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」と言われた(5節)。ぶどうの枝の務めが実を結ぶことであるように、私たちは実を結ぶために選ばれた。私たちが結ぶべき実とは、まず愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の実だ(ガラ5:22,23)。元来私たちの内にはこういう実は一つもない。
イザヤ5:1-4に、神の期待を裏切った野ぶどうのことが記されている。私たちのことだ。生まれながらの罪人ではどうすることもできない。まず十字架による救いをいただきたい。しかし、救われただけではまだ実はない。肉だから肉の思いしかないのだ(ガラ5:19-21)。
御霊の実とは、御霊が内から結ばれる実だ。イエスは「行って実を結び」と言われた。行けと言われる。しかし、また留まれとも言われる(4節)。行くためには留まらねばならない。イエスは十二使徒を選ばれる時、まず「彼らをご自分のそばに置」(マル3:14)かれ、それから彼らを遣わされた。まず主のもとに置いていただかなければならない。
「わたしにとどまりなさい」は英訳で“Abide in Me”だ。主の内に、つまり主が内に留まってくださる恵みだ。御言葉に従って行くなら、救われてもなお神に喜ばれない古い自分の姿に気づかされる。そのままでは嫌だと思い、十字架のもとに行くなら、その古い自分をキリストと共に十字架につけて死に、よみがえられたキリストが内に生きてくださるという信仰に啓かれる(ロマ6:4-6,8、ガラ2:19,20)。御霊の実とは、この恵みによって結ばれる実だ。何ものにもまさって主を愛し、隣人を愛する愛、苦難の中にあっても持つことが出来る喜び、主が共に在す確信から来る平安…、こういう結実を神は待っておられる。
主に喜ばれる実を結びたい。そして伝道の実を結びたい。私という一人のクリスチャンを通して、さらに他にクリスチャンが生まれてくる、そういう結実を見たい。
2.聞かれる祈りをするため
祈りは私たちの武器だ。主イエスの名による祈りは確実に神のもとへ届けられる。大胆に神に膝詰め談判をする信仰の祈りを捧げたい。
祈る時、膝の下にサタンを組み伏せて、信仰によって勝利をすることができる(ヤコ5:16、17,18)。アブラハムやモーセは滅びゆく民のために必死にとりなした(創18:22、出32:32、詩106:23)。私たちもとりなしの祈りを捧げよう。神は祈りを聞かれる。ただ神に信頼して、主の名によって大胆に祈ろう。私たちのためにいのちを投げ出されたイエスは、流された血のゆえに、祈りを神に届けてくださる。
恵みによって主に選ばれたことを感謝しよう。そして、実を結ぶ枝にならせていただけるよう求めよう。主に留まっていれば、必ずそのように導かれる。