キリストを生きる
ピリピ1:20-30
ピリピ人への手紙は、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙と並んで、幽囚書簡(獄中書簡)と呼ばれる分類に属する。今日の箇所の前には、獄中という一見すると絶望的な状況においても(1:13,14)、また、他の伝道者たちの競争心というマイナスに思えるものがあっても(1:15-17)、キリストの福音が前進することを、パウロが確信している姿を見ることができる(1:18)。
さて、今日の箇所の中心は21節だ。「生きることはキリスト」、つまり、キリストを生きるとはどういうことか。「キリストの福音にふさわしく生活」(27節)するということだ。キリストは、神から遣わされ、私たちに十字架と復活による救いを与えてくださった。キリストの十字架と復活を信じる者は誰でも、罪の赦しをいただき、神の前に義としていただくことができる。キリストの福音がその人のうちに始まる。福音にふさわしく歩み始めることができる。福音にふさわしい歩みを、今日の箇所から3つの面で見たい。
- 人の願いを超えて必要を満たしてくださる神に、全てを委ねる。パウロの願いが23節に吐露されている。人は誰しも切望、欲望、欲求を持つ。キリストも受難の前夜、弟子たちと共に食事をすることを切望された(ルカ22:15)。しかし、ゲッセマネの園では、ご自分の願いを神の御心の前に屈服された(ルカ22:42)。私たちも自分の願い、欲望、欲求に固執している限り、神の御心を悟ることはできない。キリストの十字架と復活による救いを明確にいただいた者は必ず、自分のものに固執しようとする肉の性質に気がつく。神の御心よりも自分を優先させたい、何が何でも我を押し通したい、自分の思いが満足するのであれば神など平気で裏切るという罪の性質だ。この肉を十字架につけて始末するとき(ガラ5:24)、キリストが内に臨んでくださり(ガラ2:19,20)、私たちは真の意味で神の御心に生きることのできる者となる(1ペテ1:14,15)。人の思いをはるかに超えて、私たちの「必要」(24節)を満たしてくださる神に全てを委ねて生きる者となる(ヘブ4:16)。
- サタンに脅かされることなく、信仰を守る。「反対者たち」(28節)とは、自らの意志を持って神に敵対するところに身を置く者という意味だ。サタンはその筆頭だ(2テサ2:4)。サタンは、私たちが信仰を持って進もうとするところに必ずやってきて、私たちの信仰を脅かそうとする。サタンに信仰を脅かされ、負けてしまうと、自らをサタンの側に身を置く者となってしまう。自らを「キリストの十字架の敵」(ピリ3:18,19)としてしまう。だが、私たちが信仰を貫くならば、サタンに脅かされることなく、命を保つことができる(ヘブ10:39)。サタンは今の終わりの時代、躍起になって働いている(黙12:12)。私たちはサタンに気をつけているべきだ(1ペテ5:8,9)。策略を見破り、乗じられないようにしたい(2コリ2:11)。キリストは十字架の上でサタンに勝利を取られている(ヘブ2:14,15)。私たちも信仰によってサタンに勝利し(ロマ8:37)、自らの信仰を守りたい(2テモ4:7)。
- キリストと同じ心を持ち、キリストと共に戦う。「苦しむ」(29節)とあるが、これはキリストと同じ心を体験するという意味だ。喜びも楽しみも祝福もあるが、苦しみもある。キリストが負われたパッションを私たちも負わせていただくことだ。決して楽な道ではない。「苦闘」(30節)となるだろう。しかし、私たちにはキリストがいてくださる(マタ28:20b)。私の中に確かにおられるキリストが、私と共に戦ってくださる。キリストと共に戦う者は、キリストの心を我が心として生きる(ピリ2:5文)。キリストと同じ心を持つから、キリストにあって「堅く立ち」(27節)、キリストと「ともに戦」(同)うことができる。
私たちも、キリストを生きる者になりたい。キリストの福音にふさわしい生活を送る者になりたい。