主にのみ仕えよ
マタイ4:1-11
主イエスが公生涯に入られるに際し、通らねばならない所は、まずヨルダン川だった。主はそこでヨハネから受洗された。そのとき天が開け、聖霊が下り、天からの御声があった(3:16,17)。ルカは「祈っておられると、天が開け」と記している(ルカ3:21)。
もう一つは荒野だった。主はそこでサタンの誘惑を受けられた。主はこれから、サタンの支配する邪悪な世に出ていかねばならない。だから、ここで勝利しておく必要があった。
主はサタンから三つの誘惑を受けられた。
1.石をパンに変えよという誘惑
主は40日間断食され、空腹になられたところにサタンが来た。サタンは一番弱いところを撃ってくる。「あなたが神の子なら…」は“あなたは神の子なのだから…”という意味だ。彼はイエスが神の子と知っていた。“神の子なのだから、自分の食べ物ぐらい自分ですればいいでは…”と言ってきたのだ。つまり神への絶対信頼を半減させようとしてきたのだ。
しかし、主は御言葉で反撃された。「人はパンだけで生きるのではなく…」と申命記(8:3)の御言葉で対抗された。主はいつも御言葉に従っておられた。人が真の意味で生きる原動力を知っておられたのだ。
2.神殿から飛び降りよという誘惑
サタンが使った御言葉は、詩篇(91:11,12)だ。彼も御言葉を使う。いや、私たちよりも御言葉をよく知っているかもしれない。私たちが御言葉に精通していなければ、サタンに太刀打ちできない。
彼は“一気にスターになれる。十字架にかからなくても王になれる”と、主の功名心をくすぐってきた。サタンのもくろみは十字架を否定、または不明瞭にすることだ。しかし、主はやはり申命記(6:16)の御言葉で反撃された。申命記は神の御心である律法の中心だ。確かに御使いは主を支えるだろうが、試みようというのは動機が不純だ。主はいつも動機を見給う。
3.サタンを拝めという誘惑
彼はついに本性を暴露した。ここに至っては、神への反逆でしかない。主は即座に「下がれ、サタン」と一喝された。サタンだと分かったら少しでも耳を貸してはならない。主は「主なる汝の神を拝し、ただこれにのみ仕え奉るべし」(10節文語)と、やはり申命記(6:13)の御言葉で対抗された。神への全面的・絶対的信頼によって立ち向かわれたのだ。
神への信頼による主の勝利だった。主に依り頼んでいけば、私たちも必ず勝利できる。主は私たちの罪のために十字架にかかられた。そこまで愛してくださった主を、私たちも心から信じ、主にだけ仕えたい。
ここで二つのことを教えられる。まず、神への礼拝の真実性だ。私たちの礼拝は真実か、霊とまことによって礼拝しているかをさぐられる(ヨハ4:24)。私たちに対していつも真実の愛を尽くしてくださる主(エレ31:3)を、私たちも真実の愛をもって礼拝したい。
次に、神への愛の純粋性だ。私たちの内に、神に対する以上に愛を注いでいるものがないか(ルカ14:26)。突き詰めれば自分が一番可愛いという自我、肉だ。その古き人が十字架で死んで、キリスト内住の信仰で生きる者とされるなら、解決がつく。主がいかに父なる神を愛しておられたかは、その従順な歩みが証明する。愛せずしては従えない。愛ゆえの従順だ。
主にのみ仕えよう。私を愛して私のためにご自身をお捨てになった神の子イエスに、まごころから仕えよう。終わりの日に、再臨の主を心からの礼拝をお献げしたい。