まことの光の到来
ヨハネ1:9-14
クリスマスは、キリストという語とマス(ミサ=礼拝)という語の合成語ということから、キリストが礼拝されるべきお方である事が明確にされる時だとわかる。なぜ世界中でクリスマスが祝われるのかと言うと、キリストの降誕が私たちの救いに直接かかわるからだ。
キリストとはどういう御方か。第一に、初めからおられた御方だ(1節)。キリストは神ご自身だった(2節)。キリストは神と共に天地創造の業に当たられた(3節)。その御方が人となってこの世に来られた(14節)。永遠の神が、限りある人間となって来られたのだ。
第二に、光として来られた御方だ(9節)。光は暗い部分を照らす。キリストは私たちの心の暗い部分である罪を照らされる。罪とは、憎しみ、妬み、自己中心など、神に喜ばれない心と行いだ。その根は神からの離反であり、キリストを受け入れない心だ。
元来、人は神のかたちに創造された(創1:26,27)。神のかたちに、つまり神との自由な交わりに生きる者として造られたのが人間だ。しかし、サタンにそそのかされ、神の御言葉に背き、神から離れた。人がキリストを受け入れないのはそのためだ(10節)。神はその独り子を与えてくださったほどに私たちを愛してくださった(ヨハ3:16)のに、私たちはキリストを拒否し、十字架に付けた(11節)。キリストの光は私たちにこの罪を示す。
さらにキリストの光は、罪の赦しを与える(ヨハ8:11)。キリストは私たちの罪のために十字架にかかられた。そして、十字架の上から私たちに罪の赦しの恵みを与えてくださる。
第三に、神の子どもとなる特権を与える御方だ(12節)。罪のために滅びゆく私たちを、神は「我が子」と呼んでくださる。私たちはかつては罪の子、滅びの子だった(エペ2:1-3)。しかし、キリストの十字架の贖いによって、私たちは神の子どもにされる。子どもは親に似るものだ。神の子どもにされたら、神の性質に似る者になる。神の性質を受け継ぐ者になるのだ(2ペテ1:4)。神の性質とは神の愛、神の聖(きよ)さだ。罪人の私たちをどこまでも愛してくださった神の愛(ロマ5:8)をいただいて、私たちも神と人を愛する者とされる。また、神の聖さ(1ヨハ1:5、2テモ2:13)にあずかる。神の性質たる光、いのちの光を内に持つ歩み(ヨハ8:12)を進めていく者になる。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(14節)という御言葉は意味が深い。「住む」という言葉には“幕を張る”という意味が込められている。旧約のモーセの時代、完成した幕屋に栄光が満ちた(出40:34,35)。神が幕屋に住まわれたのだ。永遠の神であられたキリストが、人となって降誕されたのは、主が私たちの内に幕を張ってくださるということ、つまりキリストの贖いは、私たちをキリスト内住の信仰で生きる者とするためのものだということだ。ここにクリスマスの奥義がある。
イエスはまことの光として来られた。私たちの魂を照らし、完全な救いを与える御方、十字架の贖いを成し遂げて、私たちを罪と汚れから全く救って、私たちを神の子どもとし、終わりの時に御前に立たせてくださる御方として来られた。信じよう。必要なのは信仰だけだ。
クリスマスは御子を信じる決断をする時、信仰を確かめる時だ。まことの光を受け入れて、新しい生涯を歩みだそう。