真の礼拝者
マタイ2:1-12
礼拝という切り口で新約聖書を見ると、興味深いことがわかる。マタイの福音書は、本日の箇所をもって礼拝で始まり、礼拝で終わっている(マタ28:16,17a)。同様に、新約聖書全体も、礼拝で終わっている(ヨハ黙22:8,9)。礼拝がいかに重要な要素であるかがわかる。礼拝は、神の前の私たちの姿勢であり、心であり、生き方そのものだ。今日の箇所から真の礼拝者の姿を学びたい。
- 探し求める姿
博士たちは、熱心に、また純粋に新しい王を探し求めた(2節)。私たちも彼らのようにキリストを探し求めるべきなのだが、実は、神の方が先に私たちを探し求めてくださった(創世3:9)。“人よ、あなたはどこにいるのか”という問いと、“キリストはどこにおられるか”という問いは、一つに集約される。それは、“私にとって、キリストはどこにいるのか”という問いだ。
この問いの答えとして、キリストは生まれてくださり、十字架にかかって死んでくださった。キリストの十字架を信じる者は皆、“私の救い主キリストは、私の真っ只中にいてくださいます”という答えを見出すことができる。キリストを探し求め、キリストとお出会いし、その救いをいただく者こそ、真の礼拝者なのだ。
- 主の前に心を開く姿
博士たちは、宝の箱を開けて、贈り物を献げた(11節)。宝の箱とは、心のことだ(マタ6:21)。彼らは自分たちの心を開け、主に自らを差し出した。自分が最も大切にしているものにこそ、私たちは目を向けるべきだ。主が一番です、主を愛していますと言いながら、主よりも優先させるもの、主よりも愛情を傾けるものがないか、私たちは自らの心を省みるべきだ。そして、私たちも、自分の心を主の前に開け、握りしめているものを主に献げたい。
ちょうど、アブラハムが最愛の我が子イサクをささげたように(ヘブ11:17)。キリストの十字架によってはっきりと救われた者は、必ずこの点が取り扱われる。私たちが己をキリストと共に十字架につけて始末していただくならば、キリストが内に臨み、内に働いてくださる(ガラ5:24)。主の前に心を開き、内に主に働いていただく者こそ、真の礼拝者なのだ。
- 新しい道に歩んでいく姿
博士たちは、新しい道を通って帰って行った(12節)。私たちに救いを与え、救いを完成してくださるキリストは、新しい生ける道を開いてくださった(ヘブ10:20)。私たちは、キリストによってこの新しい道を歩んでいくことができる。
神から離れ、罪にまみれ、サタンに支配された古い道へはもう戻らない。私たちがキリストの内にしっかりと留まり、キリストを信じる信仰に生きるならば、私たちはいつも新しい道を歩み続ける(2コリ5:17)。主によって新しい道へと踏み出していく者こそ、真の礼拝者なのだ。
さらに、教会は、人々を招き入れ、滅びから救われるための新しい道へと送り出す使命を帯びている(ヤコ2:25,マタ16:19,2コリ5:18-20)。だから、教会は礼拝を固守する。
終わりの時代である今だからこそ、神は真の礼拝者を求めておられる(ヨハ4:23,24)。クリスマスを待ち望むこのとき、私たちは自らの姿を省み、真の礼拝者として歩む者となりたい。