主のご要求にお応えして
申命記10:12-22
イスラエルの民はモーセを通して、神から二度にわたって十戒が与えられた(1,10節)。本書は、シナイ山で与えられた律法とは別のものだ(29:1)。出エジプトした民は、モーセによって、シナイ山で十戒(律法)が与えられたが、不信仰になり、神に背いて偶像礼拝の罪を犯した。石の板は砕かれ、十戒は反故(ほご)になったかのように見えた。しかし真実な神は、一度示された御心を必ず実現される。二度目の十戒を与えられたのだ。
それは、彼らを縛るためではなく、律法なしでは生きていけない彼らを生かすためだった。律法とは、命令・禁止の様々な規定ではなく、神の御心だ。主は格別イスラエルを愛し、律法を与えて御旨に沿う歩みをさせようとされた。イスラエルの民が選ばれたのは、主の一方的な恵みだった(7:6-8)。
その民に、主が期待されることがあった(12節)。主は私たちに対するご要求をお持ちだ。それは、「ただ」とあるように難しい事ではなく、誰でも応えられる主からのご要求だ。それは主を恐れ、主の道に歩むこと。主を愛し、心を尽くして主に仕えること。一言で言うなら、主のみことばに従うことだ(13節)。
神の目的は、キリストの十字架で贖われた私たちが幸せになることだ(13節、エレ29:11)。その幸せは、主のみことばに従うことによって得られる。そのためには、硬いところが砕かれ、聞き従いやすい、柔らかい魂にならなければならない。つまり、心に割礼を受けることだ(16節)。 割礼は神との契約のしるしだった。全能の神としてご自身をアブラハムに現された時、契約のしるしとして割礼を受けることが命じられた(創17:10)。割礼を受けていることは、確かに神との契約に入れられたという証しだった。
割礼のない者とは、神との契約に入れられていない者、神との関係が本来の状態ではない者ということになる。それは、①強情な心。聞こうとしない硬い心、自分はこれでよいとする心だ。②不信仰。贖いが自分のためであること、自分も新しくされ得ることが信じられないのだ。③不従順。口先だけで実際に従わない心、本当は従いたくない自己中心のかたまりの心だ。
これらは肉の心、自我に凝り固まっている心の状態だ。神はそんな心に割礼を施せと言われる。自我を切り取って新しくなれと言われる。神に喜ばれない古い自分を十字架につけるなら、キリスト内住の信仰で生きる者となることができる。
主は私たちに、割礼を施された心、内にキリストが生きておられるという信仰で進む者になることを求めておられる。あれもこれもではない。ただこの一事だ(詩27:4、ルカ10:42、ピリ3:13)。私たちの側で努めるべき一事は、主からの私たちへのご要求だ。
心に割礼を受けた魂は、(a)主を恐れる。神への敬虔だ。足から履物を脱いで、全てを主に明け渡すのだ(ヨシ5:15)。(b)主の道に歩む。絶えず主を求める(マタ6:33)。(c)主を愛する。私を愛し私のためにご自分をお捨てになった主を、何ものにもまさって愛する(ヨハ14:21)。(d)主に仕える。主にだけ仕えるのだ(ヨハ12:26)。(e)主の命令と定めとを守る。真に従うとは、進んで、喜んで、信仰をもって、また無条件にみことばに従うのだ。
肉の割礼を受けているか否かは問題ではない(ガラ6:15)。心に割礼が施されたかどうかだ。これなしに私たちが新しくされることはない。主のご要求に、真摯にお応えしていきたい。