礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2021.11.07

主イエスのとりなし

ヨハネ17:20-26

十字架前夜の、主イエスの最後の公の祈りだ。主は大祭司として弟子たちのために祈られた。6節以下で、主は弟子たちのための5つの祈りを捧げられる。

 

1.彼らをお守りくださいという祈り(11節)

ご自分は世を去られるが、弟子たちは、救い主を受け入れずに(1:9,10)、光よりも闇を愛した世(3:19,20)に残される。主は、弱い彼らが守られることを求めずにはおれなかった。しかも、彼らを世から取り去るのではなく、証人として世に遣わしたいと思われた。イエスはこの世のものではなく、神から遣わされて来られたお方だ。主に選ばれた弟子たちもこの世のものではなく(14節)、世に遣わされた者だ。世から遊離するのではなく、世に迎合するのでもなく、世に対してキリストを表していく者として遣わしたいと願われた。だからこそ保護が必要なのだ。

主は私たちの救いのために神から世に遣わされて来られ、十字架の血による贖いを成し遂げられた。贖われた私たちは、もはやこの世のものではなく、この世に遣わされている。世に主を表していくためだ。そのために、主は守り給えと祈られる。

 

2.彼らを聖別してくださいという祈り(17節)

彼らは弟子として選び別たれた。彼らが立派だったからではない。神の憐れみによって召されたのだ。しかし彼らは弱く、肉の思いに駆られやすい者たちだった。だから主は、彼らが聖別されることを求められた。

主は私たちが聖くあるようにと願われる。救われてもまだ神に喜ばれない自我に振り回されている自分の姿に気づき、その自我を十字架につけて己に死んで、キリストが内に生きておられるという信仰に啓かれる。これが私たちが聖別されることだ。

 

3.彼らを一つとならせてくださいという祈り(21節)

主は、やがて来るべき迫害の時代を見越しておられた。ペンテコステに約束の聖霊が注がれ、教会が誕生すると、迫害が起こった。初代教会は迫害によく耐えた。教会が信仰において一致していたからだ。

迫害の背後に働くサタンは、一致を乱そうとしてくる。私たちが、主への愛と信頼において一致しているなら、迫害に耐えることができ、サタンに勝利することができる。

 

4.彼らをご自分と共におらせてくださいという祈り(24節a)

これが祈りの中心だ。保護も聖別も一致もここに帰する。「わたしとともに」と言われる。主の臨在と共ならせ給えと祈られるのだ。

主が私たちと共に、私たちの内におられる。それは、私たちがキリストが内におられるという信仰に啓かれ、主のおられる所、天の処(エペ2:6)におらせていただくということだ。内住のキリストを仰ぎつつ、この世にあって喜びと平安に満ちた歩みをさせていただくのだ。

 

5.彼らに栄光を見させてくださいという祈り(24節b)

栄光とは、世の初めから主が持っておられた栄光であり、やがて私たちに現されるべきキリスト再臨の栄光だ。この世の終わりに、私たちは主と同じ姿に変えられる(1コリ15:51,52)。贖われた私たちは、いつでも栄光の主の前に立てるという希望に生きることができる。

 

贖われた者は、世に生かされているが、世のものではない。その私たちのために、主はこれだけの祈りを捧げられる。私たちはこの大祭司の祈りに支えられているのだ。弱さを覚える時、戦いを覚える時、イエスに祈られていることを思って感謝しよう(ルカ22:32a、ヘブ9:24)。