十字架のことばは神の力
Ⅰコリント1:18-31
ローマ領アカイア地方(現ギリシア)の首都コリントは、繁栄したが、同時に道徳的に退廃していた。そこに、パウロの忍耐強い宣教によって建てられた教会があった。困難な宣教の中で失望していたパウロは、主に励まされて(使徒18:9,10)、福音を語り続けた結果、教会の基礎が据えられた。しかし、世の堕落ぶりは教会にも影響を及ぼし、様々な問題が噴き出していた。そのようなコリント教会員に、パウロはもう一度キリストの福音の深さを語った。
18節以下に神の知恵と人の知恵が対比されている。コリントの町は、知恵を重要視するギリシャ文明の影響を受けていた(2節)。人間の理性によって判断する哲学者、言い伝えによって判断する律法学者、議論家(20節)にとって、キリストの十字架は愚かに見えた。
数々の奇跡を行われたのに、十字架上で全く無力だったキリスト(マタ27:39-43)が救い主とは、確かに非合理的だ。しかし、十字架のキリストこそ神の知恵だった。なぜなら、その死は贖いの死だったからだ。
無力に見える十字架こそ、私たちの救いのために神が現してくださった神の知恵だ。この神の知恵が、私たちの知恵になる(30節)。十字架に現された神の恵みが、私たちのものになる。キリストは私たちの義と聖と贖いになられたのだ。
1.キリストは義となられた
私たちに救いの恵みを与えるお方になられた。私たちが選ばれたのは、実に不思議だ(26-28節)。学問、権力、地位のない、無に等しい私たちが、世の基が据えられる前から(エペ1:4)あえて選ばれた(28節口語訳)。
無に等しい者とは、選ばれる理由のない罪人ということだ。救いは認罪から始まる。罪しか犯さなかった私たちが、赦罪と義認をもって選ばれた。認罪-悔い改め-十字架信仰という手順を踏んで、赦罪-義認-神との和解-新生の救いが与えられた。そもそも神特有のものである義が、私たちのものになるのは、罪なきお方が罰せられてくださったからだ(2コリ5:21)。それはいかに大きな恵みか。
2.キリストは聖になられた
私たちに聖潔(きよめ)の恵みを与えるお方になられた。救われたのになお罪を犯す、神に喜ばれない…という自分に気がついた魂を、神はさらに深い恵みに導かれる。自らの汚れた姿を徹底的に見せつけられ、こんな自分では嫌だと思い、その古き人を十字架につけて己に対して死ぬというところを通って、内にキリストが生きておられるという信仰に開かれる。そして、そこから、絶えず御心にのみ従うことを喜ぶ歩みを始めることができる(詩40:8、ヨハ5:19、ヨハ8:29)。
3.キリストは贖いになられた
主は、私たちを栄化の望みに輝かせるお方だ。やがて主は再臨される。そのとき私たちは主と同じ栄光の姿に変えられる。この弱くてもろい体が贖われるのだ。これは、義とされ、聖とされた者に与えられる希望だ(コロ1:27)。
義認・聖化・栄化、これがキリストの全き救いだ。この恵みにあずかることができるのは、知恵も権力も地位もない、無に等しい者、つまり徹底的にへりくだった者だ。
こんな私が、義とされ、聖められ、栄光の望みに生かされるとは、これこそキリストの十字架の力だ。無力と思われた十字架が、神の力なのだ。罪のために滅ぶべき、無に等しい私たちが、ここまでされる。これが神の知恵であり、神の選びの不思議だ。
十字架のことばは神の力だ。私たちを全く救う神の力だ。いかなる困難のとき、絶望的な状況の中でも、十字架の主を仰いで進む者に力が現される。十字架の主に信頼する者は、決して失望に終わらない(1ペテ2:6)。