子羊の血による贖い
出エジプト12:1-13
イスラエルの民は、エジプトで430年間奴隷生活を強いられた(出1:8-14)。民の叫びが神に届き(同2:23-25)、神はモーセを立てて彼らの救出を図られた(同3:9,10)。モーセは敢然とファラオの前に立ったが(同5:1)、頑(かたく)ななファラオは、モーセの忠告に耳を貸さず、神は、血、蛙、ぶよ…など10の災いをエジプトにもたらされた。彼はそのつど、悔い改める格好を見せながら、民を去らせることを拒み続けた。ついに長子が撃たれるという最後の裁きが下った。
その前に民に逃れの道が示された。子羊を屠(ほふ)って、血を鴨居と門柱に塗り、また肉を食するという、神の特別な方法だった。これが過越の祭の始まりになった。そして、これはキリストの十字架による贖いを表す。
1.血が塗られた(7節)。神の使いは、門柱と鴨居に塗られた血を見て、イスラエルの家を過ぎ越した(13節)。民は血によって裁きを免れた。これは私たちのことだ。
私たちは罪のために神の裁きを受けるべき者だった。しかし、主の血によって赦罪と義認が与えられた。血がしるしだ。十字架の血によって私たちはもう裁かれない(1ヨハ1:7)。キリストが裁かれてくださったからだ。
2.肉を食べた(8,9節)。食べ方が指示された。①種なしパンと苦菜を添えて食べよと言われた。パン種は不信仰の象徴だ。不信仰があると、恵みは届かない(1コリ5:6-8)。苦菜は悔い改めを表す。悔い改めは、はっきりした救いを得るためにどうしても必要だ(1ヨハ1:9)。
②火で焼いて食べよと言われた。子羊を生で食べるとは、キリストを表面的に真似ようとすること、水で煮て食べるとは、キリストを人間的に引き下ろして解釈しようとすることだ。そうではなく、火で焼いて、つまり聖霊の火が通された魂でキリストを受けとめなければならない。自我を十字架につけ、キリストが内住してくださっているという信仰で生きる者となることだ。
③頭も足も内臓もみな食べよと言われた。キリストの頭とは主の心(ピリ2:5)だ。キリストの心とは、十字架の死に至るまでの、父への徹底的従順だ(同2:6-8)。キリストの足とは、友なき者の友となられた主の柔和で謙遜な歩み(マタ11:28)、キリストの内臓とは、滅びゆく魂への主の愛だ(マタ9:36)。
キリストは、自分に都合のよい所だけではなく、丸ごと食べるべきだ。主は絶えず御心に従い、謙遜に、愛をもって歩まれた。それが私たちのいつもの祈りとされ、歩みとされたい。
④急いで食べよと言われた。くずぐずせずに早く、今キリストを信じ、キリストに従うべきだ(2コリ6:2)。主は今恵もうとされる。こちらで勝手に時を定めたり、延期したりしてはならない。
こうしてイスラエルの民は信仰に立って出エジプトをした。これが彼らの信仰の原点となった。私たちの信仰の原点も十字架の贖いだ。たえず十字架の血潮を仰ぎ、キリストを食べる者になりたい。
その夜、神は寝ずの番をされた(41,42節)。それほど神は民を愛して贖い出されたのだ。主は私たちにも十字架の血による全き贖いを与えてくださる。贖いの恵みが確実に自分のものとなるようにしたい。
その夜は家の外に出ることが禁じられた(22節)。恵みを得るまでは、主のもとから離れてはならない。目を主から離さず(ヘブ12:2a)、みことばが語られる所に出続け、メッセージに従い続けよう。
民は、子どもに過越の意味を教えるべきことが命じられた(26,27節)。次世代にキリストの十字架の意味を伝えることは、私たちの責任だ。信仰は自然に受け継がれることはない。子どもに限らず、家族に福音を伝えていこう。先に恵みをいただいた者として、喜んで使命を果たさせていただこう。