エルサレムに生きる者
イザヤ4:1-6
今日の箇所は、神の都エルサレムについての預言が記されている。エルサレムは比喩であり、キリストを信じる者たちの霊的な立場を示している。ここから、3つの事実を学ぶことができる。
- 主の若枝がエルサレムを再建される。
まず、「主の若枝」(2節)という言葉に注目したい。この語は、時が来ると神が起こされる救い主(メシア)のことを表す(イザ11:1)。彼は、王として国を治め、公正と義と平和を実現し、「主は私たちの義」と唱えられる(エレ23:5,6, 33:15,16)。また、神殿、つまりエルサレムは彼によって立て直される(ゼカ6:12,13)。この預言は、キリストによって成就された(ヨハ2:19-21)。キリストは、主の若枝として地上に遣わされ、十字架と復活によって私たちに救いを与えてくださった。
「逃れの者」(2節)とは、再建されたエルサレムのこと、つまり、滅びから救い出された私たちのことである。救われた者は、救ってくださった神に立ち返り、真実をもって頼っていく(イザ10:20,21)。再建には目的がある。それは、実を結ぶこと、誇りを保つこと、輝くことである。救われた者は、キリストにつながって実を結び(ヨハ15:5,16)、十字架によって救われたことを証しし(ガラ6:14)、神の栄光を知る知識を輝かせていく(2コリ4:6)。しかし、この目的が達成されるためには、さらなる取り扱いが必要である。
- エルサレムに生きる者は聖なる者となる。
エルサレムに生きる者は、聖なる者と呼ばれる約束が与えられている(3節)。しかし、そのためには経なければならないところがある。すなわち、「さばきの霊」、「焼き尽くす霊」、「汚れを洗い落」すことである(4節)。「さばきの霊」とは、私たちの誤りを明らかにしていただくこと(ヨハ16:8)、「焼き尽くす霊」とは、私たちの内にある不純物を取り除いていただくこと(マラ3:2,3, マタ3:11,12)、「汚れを洗い落」すとは、きよい水によって私たちがきよめていただくこと(エゼ36:25-27,ゼカ13:1,2)。どれも、私たちが聖なる者となるための取り扱いである。
私たちは、救われた後に残る罪の根を、十字架に始末していただくところを通る必要がある。そうしていただいた者にキリストが臨んでくださり、主が内に住み、キリストに生きる者として歩むことができる。キリストに生きる者こそが、エルサレムに生きる者なのである。その名は、「主への聖なるもの」として刻まれる(ゼカ14:20,21)。
- 神がエルサレムを覆われる。
エルサレムに生きる者は、神に覆われて歩む(5節)。神に覆われた歩みとは、礼拝を主体とし、神の臨在に導かれ、神の天幕を中心に据えた歩みである。御霊と真理によるまことの礼拝をささげること(ヨハ4:23,24)が、基本である。そのような礼拝の民を、神は臨在をもって導かれる。かつてイスラエルの民を、雲の柱と火の柱によって導かれたようにである(出13:21,民9:15-23)。そして、その中心には決して「移ることのない天幕」(イザ33:20)が据えられる。
黙示録7章9-17節に、このエルサレムに生きる者たちの姿を見ることができる。ここにも、礼拝と臨在による導きと天幕という同じ要素を確認できる。ヨハネの黙示録における記事だが、天国でのことではない。地上を生きる私たちも到達できる歩みである。
私たちもエルサレムに生きる者としていただきたい。そして、子羊のいのちの書に名の記された者となりたい(黙3:5,21:27)