たましいの救いを得ているから
1ペテロ1:3-12
本書の受取人は、迫害のために小アジアの各地に離散・寄留し、困難な中で信仰の戦いを戦っているクリスチャンたちだ。ともすると失望し、挫折し、妥協しようとする者も出ている彼らを、ペテロは、キリストの血による贖いの恵みがどれほど深いものかを示すことによって励まそうとして書いた。
まずペテロは、選ばれていることを自覚させようとした。キリス卜の血の注ぎかけを受けるための選びであり、それは御霊による聖別によって従順な者になるためだと説く(2節)。ここに、私たちを罪から救うキリストの血の力がある。
私たちは、かつては罪に死んでいた者で、生まれながら神の怒りを受けるべき子らだった(エペ2:1-3)が、罪の赦しをいただいた。罪なき神の御子の血が流されたからだ。それは私たちの行いによったのではなく、神の恵みによるものだった(同2:8、ロマ3:24)。
3-7節に、神の豊かな憐れみによって(エペ2:4,5)新生したクリスチャンの特性が挙げられている。それは、①生ける望み。実現するかどうか当てにできない、不確かな希望ではない。必ず実現する保証付きの希望であり、生ける神の子キリストが与えてくださる生ける望みだ。
②朽ちず汚れず消え行くことのない天の資産。この世の富、地位、名誉は、いかに魅力的でも朽ち、必ず汚れ、消えてゆくものだが、キリストの救いをいただいた私たちには、天の資産が約束されている。私たちは、キリストと共同の相続人だ(ロマ8:17)。
③神の保護。私たちに約束された終末の時の栄化の望みを揺るがせようと、世と罪とサタンは躍起となって働きかけてくるが、神の力が守ってくれる。神は、私たちの信仰に応じて力を現される(詩34:7)。
④試練の中での喜び。新生したクリスチャンは、試練の中でも喜ぶことができる(ロマ5:3、詩34:1)。悩みや試練はあるが、主が先に悩まれた。私たちの受ける試練はすでに主が経験済みだ(ヘブ4:15)。勝利の主が先立たれる(ヨハ16:33)から、喜んで耐え忍ぶことができる。
⑤精錬された実験済みの信仰。金が高温の火で精錬されて純度を増すように、信仰も試練の火で精錬されて貴いものになる。よく精錬された純粋・高価な金でもいつか朽ちるのだが、試された信仰は強い。
こうして見てくると、これらは全き救いをいただいたクリスチャンの特性だと言える。「私たちを新しく生まれさせて…」とは新創造の恵みのことだ。罪赦されクリスチャンになっても、なお神に喜ばれない自我、肉を十字架に付けて、キリストが内に住まわれるという信仰で生きる者になるなら、生ける望み・天の資産を確信することができ、神の保護に信頼することができ、試練の中でも喜ぶことができ、信仰が純化された歩みが始まる。そして、そういう者が、キリストの再臨のとき、称賛と栄光と誉れにあふれる。だから、私たちはぜひ新しく造られたクリスチャンにされたい。
私たちはキリストを見たことはないが、キリストを愛しており、信仰によって、輝きに満ちた喜びに溢れている(8節)。たましいの救いを得ているから(9節)、見ない御方を愛することができる。生ける望み、天の資産、神の保護、試練の中の喜び、精錬された信仰は、すべてここに帰結する。
これほどの救いは、旧約の預言者たちは詳細に調べたが得られなかった(10節)。直接キリストを知らなかったからだ。また、御使いはこの救いをはっきり見ることができない。罪と汚れからの贖いを経験することがない彼らは、尊い救いをいただいた私たちを、羨望の眼差しで見ている(12節)。それほどのたましいの救いを、私たちは得ることができる。無駄にしてはならない。渇いて真剣に求め、信仰をもって、たましいの救い、全き救いをいただこう。そして、再臨の主の前に喜びをもって立たせていただこう。