死に至るまで忠実であれ
黙示録2:1-11
主は、信仰のゆえに迫害され、パトモス島に流刑になった老聖徒ヨハネに、7つの教会に手紙を書き送れと命じられた。
一通目の手紙は、エペソにある教会に書き送られた(1-7節)。パウロの伝道によって基礎が据えられたこの教会は、異教的な影響下にあってよく戦った。忍耐と労苦をもって良い行いに熱心だったこと、悪に対して厳格で、偽使徒を見破ったことなど、誉められるべき点がいくつかあった。しかし、この教会には、初めの愛から離れてしまったという(4節)非難されるべきことがあった。
初めの愛とは、ご自身の血をもって贖ってくださったキリストに対する愛だ。彼らには、どこから落ちたかを思い起こすよう戒められている(5節)。
初めの愛から離れる原因は、①かつて自分が滅びゆく罪人のかしらであったことを忘れることだ(イザ51:1)。それは傲慢の罪だ。良い行いに熱心で、他者に厳格になる時にそうなる。
②主が憐れんでくださったことを忘れることだ。滅ぶべき私たちのために、神は罪なき御子を十字架にかけられた。捨てられるはずのない神の子が、父から捨てられたのは、私たちのためであり、主はそこまで私たちを憐れんでくださったのだ(マル5:19)。忘恩の罪ほど神を悲しませるものはない。
③主が素晴らしい計画を持っておられることを知らないことだ。罪の赦しだけでももったいない恵みだが、さらに聖潔(きよめ)の恵みまで用意されている。神に喜ばれない古き人が、信仰によって十字架でキリストと共に死ぬという体験をし、キリストが内住されるという恵みを信仰によっていただいて、私たちは神の所有とされる(イザ43:1b)。神はその魂を信任して御心を示し、主の栄光を現される。この計画を知らないと、主への愛は冷える。
私たちは、主への愛から離れていないか。救われたときの燃える愛は消えかかっていないか。主に対して無関心になっていないか。外側がいかに熱心でも、真面目でも、内に愛がなければ主は喜ばれない。どこから落ちたかを深く内省し、悔い改めよう。悔い改める魂に、主は愛の回復を与えてくださる。
二通目は、スミルナにある教会へあてられた手紙だ(8-11節)。エペソ同様、皇帝崇拝の中心地だったスミルナにおいて、信仰の戦いは熾烈(しれつ)を極めた。教会は、苦難と貧困、異端の中傷にもよく耐えた。それでもなお迫害の手が伸びた(10節)。しかし、彼らは信仰の戦いを最後まで戦い通した。まさに死に至るまで忠実だった(同)。
この教会は、主に対する愛のゆえに、死をも恐れずに主に従った。愛が回復された者の姿だ。肉の思いでは、主を最後まで愛せない。どうしても己への愛から離れられないからだ(ヨハ12:25)。しかし、信仰に立つなら、内なる恵みによって、何ものにもまさって主を愛し、主に従うことができる。
忠実の動機は愛だ。愛なき忠実は律法に過ぎず、益のないものだ(1コリ13:1-3)。そしてすぐに不忠実になる。自ら愛のなさを思うなら、十字架のもとへ行こう。主は必ず愛を回復される。そして死に至るまで忠実なしもべにしていただこう。最後の日に、栄光の主からいのちの冠を授けられる者にしていただこう(10節、ヤコ1:12、2テモ4:7,8)。
戦時中、日本統治下の朝鮮に朱基徹(チュ・キチョル)という牧師がいた。日本政府が朝鮮のキリスト教会に神社参拝を強要した時、彼は偶像礼拝に当たるとして断固拒否した。そのため彼は迫害を受け、5度まで投獄され、終戦の前年に獄中で殉教の死を遂げた。彼の生涯は「死に至るまでも」という映画にもなり、後世のクリスチャンに大きな励ましを与えた。私たちも、いのちをかけて私たちを贖ってくださったキリストを愛し、最後まで主に忠実に従っていきたい。