主を知る
ホセア6:1-11
ホセア書の著者ホセアの名前は、「神は助け」「神は救い」という意味であり、ヨシュアやイザヤにもつながる語が使われている。これは、ギリシャ語に訳すとイエスとなり、キリストの福音を指し示していることになる。
ホセアの時代、イスラエルの国は南北に分かれ、それぞれで繁栄を謳歌していた。政治的に安定し、経済も潤っていた。しかし、民の道徳基準は低下し、偶像礼拝がはびこって宗教面でも堕落していた。彼らは、自分たちは神を知っている、神のことがわかっていると言い張っていた。そんな彼らに向かって、ホセアは、神のもとに立ち返り、真に神を知るようにと、切々と訴えた。神と正しい関係にいなければ、神を知ることはできない(エレ24:7,1コリ8:1-3)。神との関係が築けていなかったり、崩れてしまっていたり、歪んでしまっているとするなら、神を知ることはできない。だから、ホセアはイスラエルの民に対して、まず神に立ち返るように、神との関係を修復するようにと呼びかけた。
神を知るとはどういうことか、ということを見ていきたい。
- 神の備える救いにあずかること。
始めの人アダムは、神から禁じられていた善悪の知識の木の実を食べ、神との契約を破った(7節, 創3:)。これによって人類の中に罪が入り、それ以来、私たちは罪の中に生まれ、罪の中に生き、滅びへ落ちてしまう存在になった。しかし、そんな私たちに対して、神は新しい救いの道を用意してくださった(イザ43:19)。キリストによる恵みの道である(エペ2:4,5)。キリストが私たちの身代わりに十字架の上で命を捨ててくださって、私たちに救いが与えられた。私たちは、このキリストの救いをいただくことによって、神を知るための新しい道を歩み出すことができる。これが神を知ることの第一歩である(1テモ2:4)。
- 神がどのような方かを悟ること。
救いをいただいた者は、救いを与えてくださった神をさらに知っていく。私たちの罪を赦し、私たちを義としてくださった神がどのような方なのかを、私たちは知り続けていく(エレ31:34, イザ43:10-13)。今日の箇所では、私たちを引き裂き、また癒す神、私たちを打ち、包んでくださる神の姿が描かれている(1節)。それは、私たちを生き返らせ、立ち上がらせるためである(2節)。神の取り扱いと回復によって、私たちは神の御前を生きることのできる者としていただく(2節)。神は、愛と憐れみに満ちた方である。だが、同時に、真実と正義と聖さを貫かれる方でもある。私たちの罪と背きには厳然に臨まれ、引き裂き、打たれる。しかし、悔い改めと従順に対しては憐れみをもって臨まれ、愛をもって癒し、包んでくださる。それは、私たちが信仰をもって生き返り、立ち上がることができるようにするためである。この神のことを私たちは知り続けていく(ロマ11:22)。
- 神の御旨に従って生きること。
神を知る者は、神の御旨に従って生きる。私たちは、神を知れば知るほど、自分の姿に目が留まるようになる。なぜなら、神を知ることは、自分を知ることに他ならないからである。明確なキリストの救いをいただき、神を知り続ける者は、罪と汚れに満ちた自分の本性に直面する。これらを抱えたままでは、御旨に従うことはできず、神に喜んでいただくことはできない(6節)。神の御旨に従う者となるためには、新しくしていただくしかない(ロマ12:2)。古い人を十字架につけて始末し、キリストに内に臨んでいただく。そうしていただいた者が、神の御旨に従って歩むことができる(コロ3:9,10)。
私たちも神を知ることを切に追い求めたい(3節)。主は、私たちが知ろうとすれば、必ず知ることができる。私たちが呼びかけて、祈り求めていくなら知ることができる(エレ29:12-14a)。