主にふさわしい者
ヨハネ黙示録3:1-6
サルディスは、現在のトルコ西部に位置していた古代都市である。紀元前7世紀から5世紀にかけてはリュディア王国の首都として栄えた。世界史上初めて貨幣が鋳造されたことで知られており、全盛期には絶大な経済力を誇った。巨大な市場が町の中に設けられ、交易の中心として賑わいを見せていた。町の中心産業は毛織物業で、特に、近くを流れる川を利用した染色の技術が評判だった。また、浴場を備えた立派な体育館が建てられ、住民たちの健康志向がうかがえた。
ヨハネの黙示録には、これら町の特徴を用いた喩えが散りばめられており、当時の人たちが読んでいてピンと来るようなインパクトを伝えている。
もう一つ、見逃してはならない町の特徴がある。サルディスの町から巨大なユダヤ教の会堂跡が発掘されている。おそらく、ユダヤ人たちが町で幅を利かせ、その影響は教会の中にも及んでいたのではないかと思われる。信仰よりも律法、霊的に生きることよりも表面的に戒律を守ることに、サルディス教会のクリスチャンたちは引きずられていく傾向があったのかもしれない。こう考えると、“生きている”とか“死んでいる”という対比が用いられていることに合点がいく。
この箇所で、ひときわ目を引く言葉がある。4節の「ふさわしい者」である。今日は、4節を中心に、この「ふさわしい」ということに焦点を当てたい。何にふさわしいのか。主にふさわしいのである。「ふさわしい」という言葉から次のポイントを挙げることができる。
- 重さを量る。
「ふさわしい」には、ギリシャ語では重さを量るという意味がある。神は私たちの信仰の重さを量られる。私たちにご自分に対する信仰があるのか、私たちが本当に神を信じているのかを、神は見られる(2歴代16:9)。裁いて罰を下すためではない。導いて、育てるためである。4節に“白い衣を着る”という表現がある。これは、キリストの血によって罪を赦していただき、救いを始めていただくことであり、さらに、いただいた救いをいつも感謝し、救いを土台とした信仰を貫くことである(黙7:9-14)。明確な救いをいただき、その信仰に留まる者こそが、ふさわしい者の条件である(コロ1:23a)。
- 基準を満たす。
「ふさわしい」には、基準に見合った重さであるという意味もある。神は私たちの基準の実態を探られる。キリストの救いをいただいた者はキリストを基準として生きるべきである。神は、私たちの姿勢や生き様がこの基準に適合しているのかを見られる。4節の“その衣を汚さない”に目を向けたい。キリストを基準にして生きるとは、汚れから離れるということである。世と罪の汚れからはっきりと線を引き、聖い者として歩むことである(2コリ6:14-18)。自分の力ではなく、私たちがキリストの十字架に自らの肉をつけて始末するとき、私たちの内側にキリストという基準が臨んでくださる(ガラ6:14-16)。
- 軸を据える。
「ふさわしい」という語から、英語の軸という単語が派生している。神は私たちの軸が正しいかを確認される。私たちの正しい軸とはキリストである。神は私たちがキリストに軸を据えているのかを見られる。4節に“主と共に歩む”とある。この“歩む”という語には、“きれいな円を描いて”というニュアンスがある。紙にコンパスを使ってきれいな円を描くには、軸になる側の脚先の針がしっかりと紙に固定されていなければならない。少しでも動くと、絶対にきれいな円は描けない。私たちも、キリストに軸をしっかり据えていなければ、ふさわしい歩みを送ることはできない。(黙14:4、1ヨハ2:6)
主は私たちをご自分にふさわしい者にしたいと願われる。求めていくならば、必ず私たちは主にふさわしい者となることができる。