真理の御霊による導き
ヨハネ16:1-16
ペンテコステにおいて聖霊が降る前から、イエスは弟子たちにそのことを予告しておられた。今日の箇所は、十字架にかかられる前日、イエスが遺言のようにして彼らに残されたメッセージの一部である。彼らは、まだ弱く、霊的に未熟だった。自分たちの先生が何を語っておられるのかわからず、ただ当惑し、不安を募らせるだけだった。それにも関わらず、イエスは聖霊のことを語られた。それは、彼らをこよなく愛しておられたからであり、彼らを力付けようとするためであった。同時に、ご自分が地上から取り去られた後に、彼らがこれらの残された言葉を思い起こし、聖霊を待ち望んでほしいという主の願いでもあった。今も主は、私たちに聖霊を待ち望んでほしいと願っておられる。だから、度あるごとに聖霊の約束を語ってくださる。
聖霊は、今日の箇所では、「真理の御霊」と表現されている。「真理とは何か」(ヨハ18:38)はピラトが発した問いだが、その答えは目の前にあった。真理とは、神の御子キリストそのもののことであり(ヨハ14:6)、キリストを通して与えられる救いのことである(ヨハ1:17,1テモ2:4)。キリストはこの救いに導くために、この地上に来られた。そして、キリストが地上を去られた後、今は真理の御霊が働き、私たちを導いてくださる(13節)。真理の御霊の導きとは何か。
- 神の御心を明らかにすることである(8節)。世はサタンが牛耳っている(ルカ22:53)。罪がはびこり、正義が曲げられ、神の御心が踏みじられているかのようである。クリスチャンは、罪に縛られず、義に生き、神の御心を行うために、そのような世に遣わされている存在である。クリスチャンを通して、神の「さばき」は実現される、つまり、神の御心が行われる(ヨハ5:30)。私たちが、まず、このようなクリスチャンになるべく、他の人よりも先にキリストに出会っている。私たち自身がキリストの十字架によって罪を赦していただき、義なる者、一度も罪を犯したことのない者として認めていただき、神の救いを受け取りたい。私たちが、はっきりと救われた者として、神の御心を信じ、従っていくとき、聖霊が働いてくださり、神の御心が何かを明らかにされていく(エペ5:7-17,ロマ12:2)。
- 私たちに具体的な助けと慰めを与えることである(7節,ヨハ14:16)。神は、聖霊を通して、ご自分を信じて頼る者に助けを与えてくださる。必要なときに慰めを与え、ご自分の栄光のために、私たちの魂を正しい道に導いてくださる(詩23:3)。私たちは、聖霊の導きによって、助けと慰めをいただき、神の栄光を現す器となる(14節,1コリ6:20)。
- 私たちの同労者になることである(マル16:20)。聖霊は神からの助けと慰めを私たちに与えてくださるが、同時に私たちと共に労してくださる。共に苦労を重ね、共に骨を折り、共に重荷を担ってくださる。私たちが傷つくときには傷つき、私たちが悲しむときには悲しみ、私たちが喜ぶときには喜んでくださる。だから、私たちに必要な助けも慰めも与えることができるのである(ヘブ4:15,16)。
モーセは、旧約聖書の人物でありながら、その生きた姿に新約のメッセージを見ることができる。特に今日見たいのは、神が彼に臨在の約束を与えておられる場面である(出33:14)。臨在とは「顔」という言葉が使われている。神がご自分の顔を彼に向け、彼をその生涯を通して導き続けられた。神は彼にご自分の御心を明らかにされ、彼もまた神の御心に忠実に従った(出33:11a)。神は彼に助けと慰めを与え、どんなときでも彼を正しい道に導かれた。そして、神は彼の同労者となってくださり、「共に行く」とおっしゃっている。この臨在の約束は聖霊の型である。
今、聖霊は私たちをも導いてくださる。しかし、私たちの側がそれを拒むなら、聖霊の導きは与えられない。私たちは、心を低くし、信仰を持って、真理の御霊である聖霊に導いていただきたい。