都にとどまれ
ルカ24:44-53
十字架にかかられた後、復活されたイエスは、しばらくの間弟子たちと共に過ごされ、天に昇られた。このことは、マタイ、マルコ、ルカの福音書の最後、及び、使徒の働きの冒頭に記されている。それぞれ特徴があり、重要なメッセージを私たちに教えてくれる。それらを大きく見ると、使徒の働きは、その後のペンテコステに続く形で語られているのに対し、福音書は、それを締め括るにあたっての結論のようなものを強調している。今日は、福音書の方に目を向けたい。
マタイでの記事(28:16-20)は、イエスの言葉で終わっている。その中で着目したいのは、「弟子としなさい」(28:19)と「いつもあなたがたとともにいます」(28:20)である。弟子とは師の教えの全てを体得した者のことである。師の心、師の立ち振る舞い、師の生き方、師の全てが自分のものとなって初めて、弟子と認められる(マタ10:24,25a)。イエスの全てとは、十字架と復活によって成し遂げられた救いをいただき、この救いに生きること、そして、いつも主が共にいてくださるという信仰に立つことである。この信仰に立った者が、イエスの弟子である。マタイが、インマヌエルの約束で始まり(マタ1:23)、インマヌエルの約束で終わっているのは、私たちがこの信仰に立って、弟子となるようにという主の熱い思いである。
マルコ(16:14-20)では、弟子たちの不信仰が繰り返し強調された後、復活のイエスが現れ、彼らに信仰を語っておられる。イエスは「福音を宣べ伝えなさい」(16:15)と「しるしが伴います」(16:17)と言われている。福音は、キリストが十字架と復活によって始めてくださった救いのことであり(マル1:1)、そのことを信じる信仰のことである。信仰には、しるしが伴う。つまり、信仰は、誰が見てもはっきりわかる形で外に現れる(ヘブ2:17,18)。その信仰のしるしをもってキリストの福音を人々に証をし、宣べ伝えていくことが、信仰者の使命である。
ルカではどうだろうか。ルカは、主の神殿において天使に出会うザカリヤの場面で始まるが (ルカ1:8-11)、最後は宮で神をほめたたえる弟子たちの記述で終わる(53)。神殿も宮も、私たちにとっては教会のことである。私たちの救いも信仰も、信仰者としての歩みも、福音宣教の使命も、教会が土台となる。ペンテコステのみわざは、弟子たちが「同じ場所に集まってい」(使徒2:1)るところに起こった。今の終わりの時代、神は教会を通して働かれる(エペ1:22,23,3:9-11)。また、イエスは「都にとどまっていなさい」(49節)、「わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります」(49節)と言われた。都とは、主が十字架にかかられたところであり、よみがえられたところである。その同じところで、約束のものが送られると言われている。キリストの十字架と復活の救いにとどまる者に、約束の聖霊は降る(ヨハ15:1-11)。
エルサレムは、弟子たちにとっては居心地の良い場所ではなかった。しかし、居心地の良いところに神の取り扱いはない。この居心地の悪い場所にとどまることが、彼らにとって取り扱いとなった。彼らは決して悲観したり怖気づいたりすることなく、むしろ神をほめたたえ、約束を待った。ここに彼らの信仰と従順の姿がある。信仰と従順がなくては、神をほめたたえることも、神の約束されたものを待つこともできず、聖霊に臨んでいただくこともできない。
私たちも、キリストの十字架と復活による全き救いにとどまり(コロ1:23)、信仰と従順をもって約束の聖霊を待ち望みたい。