礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2021.05.09

ただイエスお一人だけ

マタイ17:1-8

イエスはペテロから、「あなたは生ける神の子キリストです」との信仰告白を聞かれた後(16:16)、受難の予告を開始され(同21)、主に従うことの大切さを示された(同24)。

その六日後、主はペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られ、祈りのうちに変貌された(ルカ9:28,29、マル9:3)。御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。これはイエスの復活後のお姿であり、御子が初めから持っておられた神としての栄光のお姿だ。

そのとき、モーセとエリヤが現れ、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9:31)、つまりイエスの十字架について対話した。モーセは律法の代表、エリヤは預言者の代表だ。律法も預言者も十字架に密接な関係があった。

律法では完成されなかった救いが、十字架で成し遂げられた(使徒13:38,39)。また、旧約の預言は十字架を指していた(イザ53:5,7)。主の十字架の贖いは、律法と預言の完成だったのだ。

ペテロは訳が分からないまま、感動して幕屋の建設を提案した。主を絶賛したつもりだが、無意味なことだった。つい六日前、主の十字架予告を否定して、主から叱責を受けたばかりだが(16:22,23)、彼はまだその延長線上にいた。こんな素晴らしい栄光があるのだから十字架は必要ない、と思ったのだ。彼は何も分かっていなかった。

光り輝く雲が現れ、雲の中から「これはわたしの愛する子…」(5節)との声があった。かつてヨルダン川でバプテスマのヨハネから受洗された時にかけられたのと同じ神の御声だった(マタ3:17)。イエスは神の愛し給う独り子だった。その御子を神は十字架におつけになった。主の十字架は神の御心だった。

「これはわたしの愛する子…」と言われて神から信任されたイエスが、十字架で神から交わりを断絶された。それは、神から捨てられるべき罪人の私たちが罪赦され、もう神から捨てられることがない者となるためだった。この十字架による救いを確かに受け取って、今までとは変えられた者となりたい。

この変貌は、内側からの造り変えだ。過去に犯した罪の赦しだけにとどまらず、救われたクリスチャンを悩ませる自我をも始末し、キリストが内に生きておられるという信仰で生きる者となる時、内側から新しく造り変えられる。この全き救いによって、私たちの生涯は根底から変貌される。

私たちの生きる基準、目標は何か。何を愛して生きているか。イエスが基準、目標、最高の愛の対象でありたい。それが十字架によって変貌された者の生き方だ。そして、この変貌を与えるのが、「彼の言うことを聞け」(5節)と神が証言されたイエスだ。私たちが聞き従うべきは十字架の主、全き救いの与え主だ。

弟子たちが目を挙げると、イエス一人の他は誰も見えなかった(8節)。モーセもエリヤも栄光も雲も声も消え、ただイエスだけがおられた。私たちが見るべきは十字架のイエスだけだ。他のものは、いかに目を引く素晴らしいものでも、イエス以上のものではない。全き救いを得させる十字架と復活のイエスのみに目を留めよう。

私たちも変貌させられたい。全く新しく造り変えられたい(2コリ5:17)。新創造の御業の主権はキリストだ。ただ主のもとへ行きたい。栄光に輝いた生涯は、そこから始められる。この栄光は内側から輝き出す主の栄光だ。そして、将来に約束されている栄光へとつながる(コロ1:27)。内にいます主によって、栄光に輝く生涯を送りたい。

そのような生涯とはどういうものか。①勝利の歩みだ。罪の力、世の誘惑、サタンの攻撃に勝つ歩みだ(ヨハ16:33b)。②再臨の主を待ち望む歩みだ。やがて再び来られる主にお会いできる希望がある(2ペテ3:13)。そのような栄光に輝く生涯を送りたい。秘訣は目を上げてイエスを見ることだ。