礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2021.04.25

嵐の中を近づかれる主

マタイ14:22-33

本日の箇所は、嵐のために立ち往生している弟子たちのところに、イエスが近づいてくださった場面である。

まず、嵐に着目したい。3箇所の言葉を挙げたい。

A.「向かい風」(24節)。

私たちの周りには、私たちの心を悩ませる「向かい風」がたくさんある。そうした嵐に対して、私たちは自分の力だけで立ち向かうことはできない。だから、主が近づいてくださる。

B.「悩まされた」(24節)。

原語では “試金石”が語源となる語である。なぜ嵐が起こるのか。主が与えてくださった試金石、つまり、主からのテストなのだ。

C.「(湖は)荒れ始めた」(ヨハ6:18)。

誰かの心を「奮い立たせ」(2ペテ1:13)たり、良いものを「呼び覚ま」(2ペテ3:1)したりする意味もある。主が試金石として嵐を起こされるのは、私たちの信仰を呼び覚まし、奮い立たせるためである。

さて、本日の箇所が語る通り、主は私たちにも近づいてくださる。私たちが嵐の中を立ち往生しているときにである。何のためか。

①私たちに御声をかけるため

主は、困り果てる私たちにすぐに声をかけてくださる。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)という御言葉によって、どんなときでも私たちの信仰を励ましてくださる。「わたしだ」とは、「わたしはある」と言われた神の名である(出3:14)。神が、ご自身の名を掲げてここにいてくださるから、私たちはしっかりすることができる。私たちがこの御言葉を確かに聞き取り、この御言葉によって主を信じるならば、私たちの信仰は成長していく。信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストの言葉を通して実現する(ロマ10:17)。だが、私たちが主の御声に気がつこうとせず、御言葉を聞き取らないなら、私たちは相変わらず立ち往生のままになる。

②私たちを引き上げるため

主は、手を伸ばし、私たちをつかんで、引き上げてくださる。これは十字架と復活による救いを指す。主の十字架と復活によって、私たちの罪は赦され、私たちは滅びから引き上げられた者となった。ここで大切なことは、私たちの方も手を伸ばすことだ。ペテロが溺れかけたとき、主がつかんだのは手であった。彼もまた主に向かって手を伸ばしていたのだ。信仰とは、差し伸ばされた主の手に向かって、私たちもはっきりとした意志を働かせて手を伸ばすことだ。

③私たちと共に舟に乗り込むため

主は、私たちと共に舟に乗り込んでくださる。これは、救われた後に残る罪の性質を始末し、内側に主が臨んでくださることを意味する。主が内に臨んでくださった者は嵐の中にあっても進むことができる。内におられる主に根ざす信仰を常に働かせるからである。主は、ここに達するために、私たちに近づいてくださる。

最後に、私たちに近づいてくださる主に対して、私たちはどうするべきだろうか。私たちは、いつも主の声を聞き取りたい。主の伸ばしてくださる御手に向かって、私たちも信仰の手を伸ばしたい。そして、私たちの内に主に乗り込んでいただいて、主と共に歩んで行きたい。嵐は必ず訪れる。大切なことは、嵐の中で近づかれる主に対して、私たちもまた近づくことである(マタ28:18、ヘブ4:16)。