わたしを愛していますか
ヨハネ21:15-23
イエスは十字架にかかって死なれ、三日目に墓の中からよみがえられた。復活された主は、弟子たちにガリラヤに行くように命じられた。そこで彼らに会うと約束されたのだ(マタ28:7)。
彼らはその約束を信じてガリラヤ湖に来たが、イエスにはお会いできなかった。彼らは失望し、ペテロを筆頭に漁に戻ったが、収穫はなかった(3節)。イエスにもお会いできないし、収穫もない。すっかり落ち込んでしまった彼らにイエスは現れ(4節)、船の右側に網を下すよう言われた。その通りにすると、驚くほどの大漁だった(6節)。岸に戻った彼らを、主は温かく迎え、食事をもってもてなされた(12節)。
こうして弟子たちは、復活のイエスにお会いし、疲れを癒され、空腹も満たされた。その時、イエスはペテロに「わたしを愛していますか」と尋ねられた(15節)。彼は即座に「はい、主よ…」と答えた。おそらく彼は、“主よ、私があなたを愛していることはご存じのはずではありませんか”という思いだっただろう。
しかし、イエスは二度目に同じように尋ねられた(16節)。彼は同じように答えた。さらに主は三度目も同様に尋ねられた(17節)。彼は同様に答えたが、心の中は穏やかではなかった。
ペテロには悔やんでも悔やみきれない経験があった。イエスが捕らえられ、裁かれていた時、彼は主を三度も否定したのだ(18:17,25-27)。もちろん彼は、イエスを愛していた。だからこそ、捕らえられた主の後を追って、大祭司の官邸の庭まで入ったのだ。主のことが心配でならなかったのだ。
けれども、“お前もイエスの弟子だ”と指摘された時、とっさに否定してしまった。自分を守るためだった。主を愛しているが、自分が可愛かったのだ。肉の弱さのために、思わず主を否んでしまったのだ。このことは、彼の心の深い傷となって残っていた。復活のイエスは、その傷に触れられたのだ。
イエスは彼を責めておられるのではなく、むしろ彼の傷を癒そうとされたのだ。なぜなら、主は、そのままでは彼はこれから主の弟子として主に仕えていくことができないと、わかっておられたからだ。主は、彼が主を否定することを予告される直前に、彼のために祈ったと言われ、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と語られた。主は彼を立ち直らせようとされたのだ。
イエスはペテロに「わたしの子羊を飼いなさい」(15,17節)「わたしの子羊を牧しなさい」(16節)と言われた。彼はそののち、初代キリスト教会の牧者に立てられていった。神の子羊たちを飼っていく大切な使命を担っていったのだ。そのためには、ここでイエスを否定したという罪が赦され、傷が癒されなければならなかった。復活の主は、その取り扱いをそこでなされたのだ。
イエスは彼に「わたしに従いなさい」(19節)と語られた。主を否定し、主に従えなかった彼だが、ここで彼の信仰は回復された。さらにのち、ペンテコステの日に聖霊をいただいて、彼は文字通り何ものにもまさって主を愛し、いのちをかけて主に従う者となっていった。
私たちも、何ものにもまさって主を愛する者となりたい。私のために十字架でいのちを捨てるほど私を愛してくださった主を愛して、主に従っていきたい。弱い私たちだが、聖霊が内から強めてくださり、主に従う者とならせてくださる。
ペテロは、後についてくるヨハネのことが気になったが、主は「あなたは、わたしに従いなさい」と言われた(22節)。人との比較の中で生きるのではない。あなたが従うかどうかだ。