礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2021.04.04

先に進み行かれる復活の主

マタイ28:1-15

主イエスは、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、アリマタヤのヨセフの墓に葬られた。しかし、主は死に閉じ込められたままではなかった。三日目に復活されたのだ。

ユダヤの指導者たちは、自分たちにとって邪魔だったイエスを抹殺して、得意顔だったが、一抹の不安があった。それは主が復活されるということで、主自らが再三予告しておられたことだった。彼らは、それを信じていたわけではない。十字架が彼らには愚かに思えたのと同じように、イエスの復活など愚かしいことと思っていた。

彼らは不安だった。弟子たちが盗み出し、イエスがよみがえったと騒がれては、せっかくの苦労も水の泡だからだ。彼らはピラ卜に願い出て、墓の入り口に番人を置き、封印をした(27章)。しかし、その努力は無駄に終わった。主はよみがえられた。人間の肉の努力が、全能の神の前にいかに虚しいかを教えられる。

三日目の朝、二人のマリアが墓へ急いだ。香油を塗るためだ。これは彼女たちの主への愛の現われだった。ところが、墓は空虚だった。衝撃を受ける彼女たちへの御使いのメッセージはこうだ。①恐れるな(5節)。神はいつもこう言って近づかれる。②イエスはよみがえられた(6節)。主の予告通りだ(16:21,17:23,20:19)。主のみことばは真実だ(イザ55:11)。③弟子たちに伝えよ(7節)。主は先にガリラヤに行かれるから、そこでお会いできるという約束だ。

弟子たちにとって、イエスの死はショックだった。彼らは悲しみと恐れに取り囲まれた。何よりも主を見捨てて逃げた自分たちの姿に絶望したに違いない。そんな彼らに、このメッセージが与えられた。暗黒の中に光が差した。光の中を進まれる復活の主が彼らに示された。彼らの悲しみは喜びに、不安は平安に変えられた。

復活のイエスは、私たちに喜びと平安をもたらす。主の復活が私たちに意味するものは何か。

(1)救いが確かであることの保証だ(ロマ4:25)。主は十字架で救いを完成し、私たちに罪の赦しを与えてくださった。そして、私たちに義認を与え、私たちを罪を犯さなかった者としてみなしてくださった。主の復活はその保証だ。

(2)キリス卜が私の内側から強めてくださるという恵みだ(ピリ4:13)。私たちは弱くて力のない者だ。誘惑に負け、世の力に押しつぶされやすい者だ。しかし、確かに十字架の救いを受け取った者は、内なる主を仰いで、主から新しい力が与えられ(イザ40:31)、強められて、前に向かって進んで行くことができる。

(3)栄光の希望の約束だ(コロ1:27)。イエスは世の終わりに必ず再臨され、私たちを栄光の姿に変えて迎えてくださる。内なるキリストが、いつでも栄光の主の前に立つことができる確信を与えてくださる。

このような恵みを与えてくださる主が、私たちの先頭に立って進み行かれる。贖いを完成してくださった主、死に打ち勝たれた主、私を内から強めてくださる主、やがて再び来られる主が、私たちの先に進まれるのだ。この主を仰いで従っていきたい(ヘブ12:2)。

復活のイエスは、「そこでお会いできます」(7節)と語られる。私たちが渇いて求めていくなら、必ず救い主に会える(エレ29:12,13)。みことばに従っていくなら、必ず内から強めてくださる主に会える。信じて待ち望むなら、必ず栄光の主に会える。これが復活の主の約束だ。よみがえりの朝の喜びが、自分のものになるように、信仰をもって御前に出て行こう。