柔和な王
マタイ21:1-17
本日は棕梠の主日。イエス・キリストが、十字架にかかられるためにエルサレムに入城されたことを記念する日曜日である。この礼拝から受難週が始まる。
今日の箇所は、二部に分けることができる。前半は、イエスがろばに乗ってエルサレムに入城され、人々が喜んで迎えた場面、後半は、イエスが神殿で売り買いしている人たちを追い出された場面。イエスは、柔和な王として、ろばに乗られた。戦争の道具、力の象徴とされる馬ではなく、荷物や人の運搬に使われ、従順や柔和の象徴とされるろばに乗られたということ自体が、イエスの柔和さを表した。
今日のポイントは、柔和である。柔和と聞くと、一般的には、やさしさ、おとなしさ、おしとやかさが連想される。だが、今日の箇所の後半には、あたかもそのイメージを打ち壊すかのような、イエスの振る舞いが描かれている。人間的、一般的なイメージに囚われている限り、聖書の語る柔和の真意を理解することはできない。
聖書にもう一人、柔和だと形容されている人物がいる。モーセである(民数記12:3)。彼についても、憤る場面、激昂する場面が多いことに気がつく。しかし、それは彼に導かれていたイスラエルの民が頑なで、神の命令に従わず、導き手であるモーセに逆らっていたからだった。むしろ、彼はそのような民のために、繰り返し神の前に出てとりなしている。ヘブル語の柔和という言葉には、貧しさ、苦しさ、沈黙、声を上げる、というニュアンスがある。心を貧しくすること、つまり、神以外のもので心を満たそうとしないこと、苦しみの中で神に信頼すること、そして、黙るべきときには黙り、声を上げるべきときには声を上げること、信仰をもって神の前にへりくだり、神の御心に従い抜くこと、これこそが柔和の真の意味である。モーセは、まさにこの点において柔和だった。エジプトの富と名誉を全て捨てて(ヘブル11:24-26)、神の御心に従う者となった。エジプトからイスラエルの民を導き出すために遣わされ、苦しみの中にあっていつも神をより頼んだ(出エジプト33:14-17)。民がモーセに逆らったとき、彼はただ黙って神の前にひれ伏した(民数記16:1-4)。そして、その民のためにとりなしの声を上げた(民数記16:22)。
このモーセの柔和な姿は、キリストを指し示している。キリストはモーセ以上に柔和な方だった(ヘブル3:2)。キリストは、私たちのために貧しくなられ(2コリント8:9)、神の御心に従い通され(ヨハネ8:29)、最後は十字架にかけられて苦しみを舐め尽くされた(ヘブル2:9)。黙してご自分を苦しめる者たちの手に自らを委ねられ(イザヤ53:7)、十字架の上でとりなしの祈りをささげられた(ルカ23:34)。神殿においてイエスが乱暴ともとれる行動をとられたのは、神の御心に従われたのであり、柔和なご性質と何も矛盾しない振る舞いだった。
モーセの柔和はイスラエルの民のためだったが、キリストの柔和は全人類、私たちのためのものだった。人々が王としてキリストをエルサレムに迎えたように、私たちも柔和な王キリストを心に迎えたい。私たちはキリストの柔和によって、罪を赦していただき、十字架の救いをいただくことができる。さらに、内の汚れも十字架につけ、キリストを内にお宿しすることによって、私たちもまた柔和な者となることができる。
最後に、イエスはご自分が柔和だとおっしゃっている(マタイ11:29)。「わたしから学びなさい」と言われる。学ぶとは、キリストの十字架による罪の赦しと聖潔の全き救いをいただくということだ。柔和な主をお迎えして、主にあって柔和な者として歩ませていただきたい。