その足跡に従うようにと
Ⅰペテロ2:18-25
キリストの血によって救われ、選びの中に入れられた私たちは、この世で旅人・寄留者として歩むべき者として召されている(2:11)。
それに続いて、しもべに対する勧めが述べられる。結論は「従いなさい」だ。それも、神を畏れるように、敬虔をもって肉の主人にも従えと言われている。主人は異邦人であり、気難しい主人、不当に苦しめる主人もいた。しかし、クリスチャンの奴隷は、神の前における良心のゆえに、悲しみを耐え忍ぶよう勧められている。それが神に喜ばれることだ。
イエスが模範を残された(21節)。主は罪を犯さない御方で、口に何の欺きも見いだされなかった(22節)。欺きと言えば、ペテロには苦い思い出があった。人の前で主を知らないと言ったのだ。それは、自分を守るため、自分を愛するためだった。これは人間の生来の姿だ。しかし、罪なき神の子である主には欺きがなかった。
イエスはひどい扱いを受けられた。夜に逮捕され、真夜中の裁判をたらい回しにされた。不眠不休で、食事も与えられなかった。目隠しをされて平手で打たれ、鞭で打たれ、嘲弄(ちょうろう)され、罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけられた。そして、ついに十字架につけられた。
普通は罵(ののし)られたら罵り返し、苦しめられたら脅(おど)すものだが、主は、それが一切なかった(23節)。それどころか、「父よ、彼らをお赦しください…」(ルカ23:34)と祈られた。主が罵り返されなかったわけは、正しく裁かれる神に任せておられたからだ。真実な神は、最後に必ず公正に裁き給うという絶対信頼の故だ。
このイエスの死によって、私たちに救いがもたらされた。罪の赦しと義認の恵みが与えられたのだ(24節)。私たちの罪はイエスの打ち傷のゆえに癒され、私たちは神の前に傷なき者になった(イザヤ53:5)。私たちは、罪のために滅びに向かってさ迷っていたが、神に立ち帰ることができた(25節)。神との和解が与えられたのだ。
イエスの十字架に至るまでの従順がなければ、私たちの救いはなかった。私たちが救われたのは、私たちも主のように従順な者になるためだ。主の足跡とは御旨への従順だ。
しかし、私たちのうちには、生まれながらにして神への反逆心がある。過去の罪は赦され、神との和解が与えられても、何かあると反逆心が鎌首をもたげてくる。自己中心で、どこまでも自分がかわいく、人から言われると腹が立つ、というような者だ。神に対する敵対性だ(イザヤ53:5a)内に住みついているこの罪が、いかに神を傷つけ、悲しませていることか。
しかし、私たちにはイエスの十字架がある。主は十字架上で「完了した」と叫ばれた(ヨハネ19:30)。私たちの救いが成し遂げられた宣言だ。その十字架を仰ぐなら、私たちのために備えられた全き贖いを受け取ることができ、信仰によって主と共に生きる者となる。
この恵みによって、私たちは従順な者になる。恵みによって主の足跡に従うことができる。そういう者にするために、主はいのちをかけて模範を示されたのだ(21節)。
今は終わりの時代だ。サタンは自分に残された時が短いことを知っているから(黙示録12:12)、必死に働いてくる。サタンは、私たちがいただいた贖いの恵みを割り引こう、世と妥協させよう、低いところに甘んじさせようと働きかけてくる。明確な贖いの恵みをいただいて、信仰によって主の足跡に従う者になり、罪と世とサタンに勝つ者としていただこう。