主はこの場所におられる
創世記28:10-22
ヤコブの生涯は波乱万丈だった。アブラハムを祖父、イサクを父として、エサウと双子で生まれた彼だが、兄のかかとを掴んで母の胎から出てきた彼は“押しのける者”という意味のヤコブと名付けられた(創世記25:26)。その名は、彼の生き方をそのまま表すことになった。
二人が成長した時、疲労と空腹を抱えて野から帰って来たエサウは、ヤコブが作っていたレンズ豆の煮物と引き換えに、大切な長子の特権を彼に譲った(同25:29-34)。エサウが軽率だったのだが、ヤコブはおそらく兄がそうするだろうと計算して、計画的に長子の特権を奪ったのだ。
その後ヤコブは、エサウが受けるべき父の祝福を、母リベカの入れ知恵もあり、計略をもって奪った(同27:35,36)。このようにして彼は、兄を押しのけ、祝福をわがものとしていった。そのため彼は、兄の恨みを買い、母の兄ラバンのもとに身を寄せるべく、家を出た。
それは孤独な逃避行だった。夜、疲れ果てた彼は石を枕にして眠った。その時彼は、天にまで届く梯子の上を御使いたちが上り下りしている夢を見て(12節)、主の声を聞いた(13-15節)。それは励ましと約束の言葉だった。
ヤコブは目覚め、「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」(16節)と言った。彼は父母から神のことは聞いてきた。そして、知識としては神を知っていた。しかし、神との個人的な出会いはなかった。ここにおいて、彼は初めて神が身近におられ、自分に個人的に関わってくださるお方だと知ったのだ。
彼はその場所を「神の家」「天の門」と呼んで(17節)、枕にしていた石を柱として立てて油を注ぎ、その場所をベテルと名付けた(18,19節)。そして、神に献げ物をすることを神に誓った(20-22節)。これがヤコブの新生の体験だった。
この後、彼は様々なところを通らされる。辛い事もあり、忍耐を試される事もあった。しかし、このベテルでの最初の新生の体験が、彼の信仰の土台となった。
私たちにも、新生の体験が必要だ。自分の罪を悔い改め、キリストの十字架を信じて、罪が赦され、神の子どもとして生まれ変わるという体験が、私たちの人生の土台に据えられなければならない。
天地を創造された神は、私たちのことを全てご存じだ。私たちの弱さも欠けも知っておられ、そのうえで私たちを真実の愛をもって愛してくださる(エレミヤ31:3)。その愛は、ご自身の独り子キリストを十字架におつけになるほどの大きく深いものだった(ヨハネ3:16)。
私たちは、その神の愛を受けるに値しない罪人だ。罪のために魂が死んでおり、神の御怒りを受けねばならない、滅びゆく者だった(エペソ2:1—3)。しかし、そんな私たちを神は憐れみ、愛してくださって、キリストによる救いを示してくださった(同2:4,5)。このキリストの十字架を信じて、私たちはどんな者であっても罪の赦しの救いが与えられ、神の子どもとなる特権を持って、天の御国を目指す者となる(ヨハネ1:12、ピリピ3:20)。ここが私たちの出発点だ。
ヤコブは「まことに主はこの場所におられる」と気づかされた。キリストを惜しまず私たちに下さった神は、いつも私たちと共におられる臨在の神だ(詩篇23:4、マタイ28:20b)。私たちがどのような中を通らされる時も、神は決して私たちを見捨てず、真実をもって守り導いてくださる(15節、申命記31:6)。
また神は私たちを見ておられる。主の前に隠せるものは何もない(マルコ4:22)。この神の前に真実に歩んで行こう。