神に喜ばれる信仰
ヘブル11:1-12
今日の中心聖句は6節だが、それを挟んで旧約聖書に登場する人物たちの信仰が紹介されている。今日の箇所には、アベルとエノク(4,5節)、ノア(7節)、そして、アブラハム(8-12節)が述べられている。
まず、アベルとエノクの信仰は、神から証しされていたとある。彼らの信仰は「神に喜ばれていたこと」(5節)が証しされていた(創世記4:4,5:22,24)。神から「これは私の愛する子。わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)と証ししていただかなければ、真の信仰とは言えない。私たちにとっては、キリストの救いを明確にいただくことである。罪を悔い改め、十字架を信じた者の信仰に、神は目を留め、罪を赦し、一度も罪を犯したことのない者として認めてくださる。この明確なプロセスを辿った者の信仰を神は喜び、証ししてくださる。ちなみに、証しされていたという箇所には、継続を表す文法の用法が使われている。救いの事実とその時に始まった私たちの信仰は、一度限りのものでも、時とともに消えて行くものでもない。私たちが、いただいた救いと信仰に踏み留まり続けるなら、神もまた私たちの信仰を証しし続けてくださる。
ノアは神の前に正しく、神の御心に従い通した人物だった(創世記6:8,9,22)。彼については、「恐れかしこん」(7節)だとある。何がふさわしく、正しいことなのかをわきまえることである。神の前に正しく、神の御心に従って歩む者は、何が良いことなのかを判断することができる。イエスが語った、タラントの例え話を連想する(マタイ25:14-30)。主人からそれぞれの能力に応じて預かったタラントを、僕たちは増やして主人に返す。主人はこう言う、「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21)。彼らは主人の心に忠実だったのである。信仰とは、神の御心に従って、神の前に何が正しいのかをわきまえる姿勢のことである。私たちはこの点において自らを問われたい。自分の信仰は神に喜ばれているだろうか、と。
アブラハムについては、「出て行く」(8節)と「約束」(9,11節)に着目したい。アブラハムは、神の約束された新しい土地を目指して、住み慣れた地を出て行った(創世記12:1-4a)。「出て行く」とは、私たちにとっては、汚れから離れるという意味である。救われた後、やがて自分が神の御心に従うことができないことに気がつく。私たちの内側から肉の思いや考えが溢れてくる。肉のままでは神を喜ばせることができない(ローマ8:8)。私たちは、自らをキリストの光に照らしていただいて、主に喜ばれるかどうかを吟味したい(エペソ5:7-11)。そして、信仰によって、汚れをキリストの十字架につけ、決別したい(ガラテヤ5:24,2コリント6:14-18)。この汚れからの訣別が、私たちに与えられている約束へとつながっていく。
アブラハムは歳をとり、子どもなど望みようもないような状況で、子どもが与えられるという約束を信じて待ち望んだ(創世記15:5,6)。私たちにとっては、キリストが私たちの内に臨んでくださる約束を信じて待ち望むことである。イエスは天に昇られる直前、弟子たちに約束を待つようにという御言葉を残された(ルカ24:49, 使徒の働き1:4)。弟子たちはこの御言葉に従って約束を待ち望んだ。その結果、聖霊が降り、彼らは聖霊に導かれる者に変えられた。私たちも内住のキリストを待ち望みたい。キリストは、信じて待ち望む者の内に必ず住んでくださる(エペソ3:17a)。そして、その者を新しくし、神の御心に従い、神に喜ばれる信仰をささげることのできる者としてくださる。
最後に、「神に近づく者」(6節)とある。信仰に踏み留まり、内から働いてくださるキリストによって神の御心に従う者のことである(ヘブル10:21,22)。私たちもそうならせていただいて、神に近づく者となりたい。そして、神に喜ばれる信仰をささげていきたい。