神の作品
エペソ2:6-10
前章最後に、輝かしい栄光に満ちた教会の姿が書かれてあった(1:22,23)。しかし、その教会を構成する素材たる私たちは、実に粗悪なものだった、この世の流れに流され、悪魔に支配され、肉の欲の命じるままに生きていた者で、生まれながら神の怒りを受けるべき者だった(1—3節)。また、神からのあらゆる祝福に縁のない、望みも神もない者だった(11,12節)。神に背いた罪のためだった。
そのような私たちを、神は、豊かな憐れみと大いなる愛をもって、ご自分の教会の素材としてお選びになった。罪に死んでいた私たちを、「キリストとともに」(5節)、キリストによって生かしてくださったのだ。こうして私たちは、神の恵みによって罪から救われた(5,8節)。
6節には不思議な言葉がある。神は私たちを、キリストと共によみがえらせ、共に天上に座らせてくださったというのだ。ここに違和感を持たないだろうか。死んでいた私たちが生かされた。そしてよみがえらされたと言う。よみがえるのは生きている者ではなく、死んでいる者だ。ということは、生かされた事とよみがえらされた事との間に、もう一度死が隠されている。これが自我の死だ。
キリストの十字架で罪が赦され、救われた者は、御言葉の光に照らされていくと、自分の内側の汚れに気がつく。神を愛するより、自分を愛するという己の姿だ。
原因は、自分の内に住みついている罪、古き人だ(ロマ7:15-20)。パウロはこの内在の罪に苦しんだ(同24)。しかし、彼は解決をキリストの十字架に見出した。十字架に古き人をつけ、キリストが共に生きてくださるという信仰に開かれたのだ。
この信仰で生きる者となった時、私たちはキリストと共に天の処で座に着く者となる。神がキリストを死からよみがえらせ、ご自身の右の座に着かせなさったその天の処(1:20,21)に、私たちをも着かせてくださるとは、なんという光栄ではないか。身はこの地上に生きながら、魂は天の処に座する者となっているとは、どんな大変な事が身に起こっても、潰されないということだ。
私たちは弱い。躓き倒れることもある。しかし、救いが完成している十字架を仰ぐことができる。イエスが私たちのために執り成していてくださり(ヘブ9:24)、私たちを助け、支え、慰めてくださる。
「神の作品」(10節a)とは嬉しい言葉だ。「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」とあるが、「良い行い」とは、単なる善行というより、神の御心に沿った、神に喜ばれる生き方のことだ。そのような生き方を、キリストによって新しく造られてこそ可能なのだ(2コリ5:17)。
神は私たちを愛してくださり、御子イエスの血で贖ってくださった。そして、私たちをキリストによって神の作品に造り上げてくださる。神はそのような生き方を、すでに私たちのために備えていてくださり(10節b)、それを私たちに与えてくださるのだ。
私たちが進む道の先には、再臨のキリストの前に立てるという希望がある。この世は様々な困難や災いがあり、前途は必ずしも明るくはないが、キリストをかしらと仰ぐ教会、そして私たち贖われた者の未来は希望に輝いている。信仰をもって主に従って行こう。