礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2021.02.14

恵みによる救い

エペソ2:1-5

本書には、教会のあるべき姿、クリスチャンの姿が描かれている。教会とは、建物のことではなく、イエス・キリストの十字架で贖われた者の群れのことだ。その教会の姿がまとめて述べられているのが前章の最後だ(1:22,23)。なんと輝かしい栄光に満ちた教会の姿か。その教会に連ならせられているのが、私たちクリスチャンだ。その私たちがかつてはどういう者だったか、そして私たちに神は何をしてくださったかということが、絵に描いたようにテキストに記されている。

 

1.私たちはいかなる者であったか

前述したように、教会はキリストをかしらとする栄光に輝くものだが、しかし、その教会を構成する素材である私たちは、実に粗悪なものだった。罪によって死んでいた私たちがその素材だ(1-3節)。

「背き」とあるが、罪とは、神に敵対する性質のものだ。人間はそもそも神によって、神のかたちに創造された(創1:27)。神との自由で豊かな交わりの中に生きる者として造られたのだ。人間は土のちりから造られたが、神がご自分の息を鼻に吹き入れられて、人間は生きる者となった(同2:7)。つまり人間は霊的な存在として創造されたのだ。

ところが人間は神に背いた。あの木からだけは取って食べるなと厳命されたにもかかわらず、蛇(サタン)にそそのかされ、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(1ヨハ2:16)を吹き込まれて、その木の実を食べたのだ。その結果、神のかたちは壊され、神との交わりは失われ、神から離れてしまった。

人を憎み、恨み、傷つけ、争うという個々の罪は、創造主なる神から離れたことが原因だ。罪とは、神から離れている魂の状態のことであり、その行く末は滅びだ(創3:19、ロマ6:23a)。これが、罪の中に死んでいた私たちの姿だ。

私たちは罪の奴隷だった(ヨハ8:34b)。具体的には、この世の流れに流され、悪魔に支配され、肉の欲の命じるままに生きていた者で、生まれながら神の怒りを受けるべき者だった。また、神からのあらゆる祝福に縁のない、「望みもなく、神もない者たち」だった(11,12節)。

これが栄光ある教会の素材だ。なんという粗悪なものか。しかし、神はこのような私たちを、神の教会の素材に選んでくださったのだ。

 

2.神は私たちに何をしてくださったか

「しかし、あわれみ豊かな神は」(4節)、死んでいた私たちを大きな愛で愛してくださり、「キリストとともに」(5節)、つまりキリストによって生かしてくださった。罪のない神の御子キリストが、十字架で血を流して死なれた。それは、私たちの罪のためだった。私たちは、神の前に罪を悔い改め、キリストの十字架が自分のためだったと信じて、罪が赦される。これが主の十字架の血による贖い、罪の赦しだ(1:7)。これは、私たちの努力や修行などによるのではなく、神の恵みにより、私たちの信仰によって与えられる救いだ(5節 ロマ3:24,25)。

神から離れて滅びるばかりになった私たちは、人間の力によってではなく、神が用意された方法でなければ救われない。それがキリストの十字架による救いであり、恵みによる救いだ。この救いは、全ての者に提供されている。何の差別もない(使徒13:38,39)。

世の終わりに、キリストは再臨される。その日は近い(ヨエ2:1,ピリ4:5)。主の前に出られるように、救いの恵みに生きる者としていただこう。