あなたがたの信仰のとおりに
マタイ9:27-34
目の見えない人と口の利けない人がイエスによって救われた。当時は、ハンディーキャップを持っていた人は大きなマイナスのように思われていたが(ヨハ9:2)、イエスの前にはすべてが祝福になる。
1.イエスは目の見えない人を癒された(27-31節)。
二人の盲人が「ダビデの子よ…」と叫んだ。この呼び名は、永遠の王座につく救い主に対するものだ(2サム7:12,13)。彼らは、イエスをメシヤと信じて、そう呼んだのだ。
しかし、イエスは、一見無視するように先に進まれた。その目的の一つは、彼らの信仰の中身を見ることだった。イエスをダビデの子と呼ぶとき、多くのユダヤ人は政治的解放者として期待した。この二人はどうかを見たいと、主は思われたのだ。
またイエスは彼らに、「わたしにそれができると信じるのか」(28節)と聞かれた。本気で信じているかを見るためというのが、もう一つの目的だった。彼らは「そうです。主よ」と答えた(口語訳では「主よ、信じます」)。彼らはイエスを、個人的な救い主と信じており、また本当に癒されると信じていた。
イエスは「あなたがたの信仰のとおりになれ」(29節)と言われ、彼らを癒された。これは厳粛な言葉だ。恵みは私たちの信仰に比例する。信仰の器が大きければ大きいだけ、豊かに恵まれる(2列王4:6、13:18,19)。神は私たちの信仰に応じて恵みを与えてくださる。
主を信じる者になりたい。主の御業を制限してはならない。まず、自分の救いの達成を得たい(ピリ2:12)。救いと聖潔(きよめ)の全き贖いを信仰によっていただきたい。主は、私たちを救い、潔めてくださる救い主、ダビデの子イエスだ。
さらに救霊のために遣わされたい。魂が救われると信じて祈ろう。信じたとおりになる。そして教会の前進のために祈ろう。主はどんな御業を行ってくださるか、信じて期待しよう。
2.イエスは口の利けない人を癒された(32-34節)。
イエスのもとに、悪霊のため口の利けない人を連れて来た。すると主は彼を癒された。イスラエルの中で見られた大きな奇跡は多い。モーセは紅海を分けた。エリシャは死人を生き返らせた。しかし、盲人や口の利けない者の癒しは、一度も行われなかった。モーセもエリシャもしなかった事を、イエスが行われた。だから群衆は驚いた(33節)。
盲人の目が開かれ、口のきけない者が語り出すのは、救い主が到来されたことに伴うしるしだ(イザ35:5,6)。しかし、パリサイ人たちはイエスを受け入れなかった(34節)。彼らは旧約聖書に通じてはいたが、イエスを救い主と見る目が閉ざされており、朗々と律法を暗唱することはできたが、イエスを信じる告白ができなかった。
3.イエスは私たちの目を開き、口が利けるようにしてくださる。
罪のために霊の目が閉ざされていた私たちの魂を、十字架の血をもって救い、霊の目を開き、主を信じるようにしてくださる。自分の調子や状況がどうであれ、いつでも「主よ、信ず」と告白をする者でありたい。意志を働かせて「信じます」と言うとき、そこに信仰が働く。
また、十字架の救いをいただいたら、私たちの魂の口を開き、救い主を証しするようになる。救いを自分だけにとどめてはならない。信仰をもって滅び行く魂を見て、魂への愛をもって恵みを証ししたい。
「あなたがたの信仰のとおりに」と主は私たちに語られる。そうならせてくださいと、信じて求めよう。信じたとおりになる。