礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2021.01.31

いのちの光を持つ歩み

ヨハネ8:1-12

パリサイ人、律法学者たちは、姦淫の罪の現行犯として捕らえた一人の女性を、イエスのもとに連行した。イエスを窮地に追い込むためだ。しかし、彼らの詰問(5節)に対するイエスの反応は、まず無言(6節)、続いて「あなたがたの中で罪のない者が…」(7節)という驚くべき言葉だった。彼らは、罪のない者は自分たちのほかにないと思っていた。律法を持つ自分たちこそ罪なき者だと思ってきた。ところが、誰も彼女に石を投げなかった。イエスの一言が、鋭い光を彼らの心に差し込んだのだ。自分には本当に罪がないか、石を投げる資格があるかと、御言葉の光に照らされたのだ。

彼らは一人ずつ去り始め、結局、誰もいなくなった。罪なき者は一人もいなかったのだ(ロマ3:10,23)。残されたのは彼女とイエスだけだった。どんな立派な人も自分を罰し得ないということが、彼女にも分かった。そして、自分を罪に定め得るのは、目の前にいる罪なき神の御子イエスだけだということが分かった。彼女は覚悟を決めた。

ところが、主の口から出た言葉は、「わたしもあなたにさばきを下さない」(11節)という全く予想外のものだった。ただ一人自分をさばく資格のある御方が、さばかないと言われる。これは無罪宣告だ。

イエスが彼女を可愛そうに思われたからか。もちろん主は彼女を憐れまれた。しかし、お情けだけで赦されたのではない。正統的な手続きが取られたのだ。のち、イエスは十字架で神から捨てられるようにして、血を流して死なれる。罪のない神の御子が、神に呪われた者のようにして十字架で死なれたのだ(申21:23a)。それによって、彼女を含めてすべての者の罪が赦されるのだ。

罰せられるはずのないイエスが、十字架の上で罰せられた。それは私たちのためだ。罰せられて当然の罪人である私たちが罰せられず、赦されるために、主は十字架で罰せられてくださった。しかも、努力や修行によらず、罪を認める謙虚さと、十字架が自分のためだったと信じる信仰があれば、ただで、無償で救われる。虫が良すぎるようだが、これが福音だ。

イエスは彼女に「これからは、決して罪を犯してはなりません」(11節)と言われた。これは、今後は罪を犯さない生涯を歩むことができるという約束であり、罪赦された者へのさらに深い恵みだ。罪が赦された者は、喜べない、愛せない、許せない、妬ましい…など醜い自分の姿がやがて見えてくる。傲慢で自己中心の姿に自分でも嫌気が差す。“仕方がない”では済ませられない。誰よりも、私たちを御子の血で贖ってくださった神が満足されない。

キリストの救いは完全だ。主の十字架は、過去の罪の精算に留まらず、現在の汚れの始末もつけられる十字架だ。信仰によって古き人をキリストと共に十字架に付けた魂に、信仰によってキリストが内住してくださる(ガラ5:24、2:19,20)。この御方によって、もう罪を犯さない者になる。いや、主を愛する愛のゆえに、罪を犯せないのだ。そして、愛のゆえに、御心に全く従う者になる(詩40:8)。これが福音の深さだ。

キリストは、私たちをそこまで全く救ってくださる。私たちにもう罪を犯さない生涯を送らせてくださる。主は「わたしは世の光です…」(12節)と言われた。光なるキリストを信じ、従えば、内にいのちの光を持つ。もはや闇に惑わされたりせず、内なる光によって常に勝利を取って行く者になれる。これが福音だ。

土台は義認だ。もし救いが曖昧なら、原因は認罪と悔い改めの不徹底だ。“今さら…”と言ってはならない。魂が生きるか死ぬかに関わる重大事だ。プライドや見栄などを捨て、謙虚に主の前に出よう。そこから始まる。

いのちの光を内に持って、罪・汚れから離れた生涯、いつも主に喜んでいただける生涯、再臨の主の前に立てるとの確信を持った生涯へ導かれたい。