あなたに欠けていることが一つ
マルコ10:17-22
福音書には様々な人がイエスのもとに来ているが、ここに登場する人物は、明らかに恵みを求めて主のもとに来た。彼は役人であり(ルカ18章)、青年だった(マタ19章)。また裕福な人だった(22節)。
地位、若さ、富など、人が欲しいと思うものを全部持っており、何不足ない境遇だったが、満足がなかった。彼は、「永遠のいのちを」すなわち魂の救いを求めて、イエスのもとに来たのだ。
永遠のいのち、ユダヤ人たちはこれを得るために律法を守ってきた。だからイエスは「戒めはあなたも知っているはずです」と言われた。戒め、律法は、神がイスラエルの民に、彼らが神を信じ幸せを得られるようにと与えられたものだった(申10:12,13)。
彼は、戒めは幼少から守ってきたと、胸を張って答えた(20節)。何不足ない境遇だっただけでなく、道徳的にも立派な人だったようだ。しかし彼は、どれほど努力しても、どれほど人から称賛されても、自分には永遠のいのちがないと自覚していた。
イエスは彼を慈しみの目で見つめ、「あなたに欠けていることが一つあります」と言われ、持ち物を売り払って、貧しい者たちに与えるよう言われた(21節)。彼はこの言葉を正しく理解できず、「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」(22節)。主の言葉に従えなかったのだ。資産に強い執着・愛情を持っていたからだ。
主は、善い行いをすれは永遠のいのちが得られると言おうとされたのか。そうではない。自分の心が何に向いているか、何を第一としているかを彼に気づかせたかったのだ。
並行記事のマタイ19章では、「姦淫してはならない。殺してはならない…」と律法が具体的に述べられており、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と締めくくられている(マタ19:19)。役人である彼は律法に精通しており、しかも幼少期からそれを遵守してきた。それでも欠けていた。律法の根底に流れる神への愛と人への愛(マル12:29—31)を知ることが欠けていたのだ。
彼の心の多くの部分は、富に対する愛で占められていて、律法の根幹である神への愛と人への愛は、片隅に追いやられていたのだ。イエスの言葉は、そこに鋭く光を当てたのだ。
イエスは「そのうえで、わたしに従って来なさい」と言われた(21節)。主が彼に言おうとされたのは、これだ。永遠のいのち、すなわち魂の救いを自分のものとするための条件は、イエスに従うことだ。私を愛し、私のために十字架でいのちを捨てられたイエスを信じ、信頼し、従うことだ。
イエスに従うためには、身軽でなければならない。富や地位や名誉などに執着する心を持ったままでは、真に主に従うことはできない。それらに捕らわれて、主への純粋な愛を損なわせられるからだ。彼は顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。富に対する愛を捨てて、イエスに従うなどできないと思ったからだ。
私たちに欠けているものがあるとすれば、主に対する愛ではないだろうか。神は、ご自分の御子キリストをお与えになるほど私たちを愛してくださった(ヨハ3:16、ロマ5:8)。キリストの死は、私たち罪人が罪と滅びから救われるための贖いの死だった。私たちは、キリストの十字架を通して、本当の愛とはこういうものだと知った(1ヨハ3:16)。そこから、イエスに従って行く歩みが始まる。
イエスは「汝なお一つを欠く」(21節文語)と言われる。あれもこれもではない、ただ一つ。愛だ。神が私たちにお求めになるのは、私たちを愛してくださった主を愛し、人を愛することだ。
まず十字架による罪の赦しを頂こう。さらに己しか愛せない自我を十字架の血潮で聖められ、真の愛で神と人を愛する者にならせていただこう。
おそらくイエスは、立ち去る彼をなお慈しみの目をもって見送られただろう。わかってほしい、気がついてほしい、従ってほしいと願われただろう。私たちは主の前から立ち去ってはならない。