謙遜に徹した神の御子
ピリピ2:1-11
クリスマスを前にして、キリストの謙遜を思う。
5節は、文語訳では「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」だ。キリスト・イエスの心とは、イエスが神に対して持っておられた心、すなわち謙遜、謙卑だ。謙卑とは、神への信頼と御旨への従順だ。
(1)キリストは神の御姿たるお方だった。神としての栄光、力、威光を持っておられた。しかし、神と等しいお方だということを固守すべき事とは思われなかった(6節口語)。己れに死に切ったお姿だ。(2)ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられた。父からの信頼に応えて世に遣わされて来られた神の御子だった。
(3)人としての姿、性質をもって現れなさった。私たちとどこも違わない弱い肉体をまとって、私たちの弱さを分かってくださるお方として来られた。(4)自分を低くし無にして、徹底的にへりくだった歩みをされた。ご自分のプライドや立場を守ろうとされるところは、全く無かった。
(5)十字架の死にまでも従われた。イエスは父の御心に全く信頼し、従い通された(1ペテ2:23)。父に絶対的信頼を寄せられ、御心を疑う余地など微塵も持たれなかった。神と等しい栄光の御位から、私たちと同じ人として、いや私たち以下の奴隷のようにして世に遣わされても、なぜと問われなかった。
そのイエスが、一度だけ、十字架の上で「わが神、わが神。どうして…」と叫ばれた。罪のため神から捨てられて当然の私たちは、そう叫ぶことができない。罪を犯したという理由があるからだ。しかし、イエスにはそれがなかった。だからこそイエスは「どうして」と問われた。この問いに対する答えを、主は得られた。すなわち、“一人が捨てられて万民が捨てられないという、捨てられる資格があるのは、お前だけだ”という神からの答えだった(詩22:21b)。イエスは“分かりました”と神の御心を受け取って、息を引き取られたのだ。父の御心にそのまま従うことによって、イエスは勝利を取られたと言える。
神に捨てられるはずのない罪なき神の子が、私たちに代わって捨てられたために、私たちはもはや捨てられない。罪を悔い改め、十字架を信じて赦罪と義認が与えられるのだ。
十字架前夜、イエスはゲッセマネで、「みこころがなりますように」と祈られた。「御心の成らんことを」とは、主の全生涯の姿勢だった。このイエスの神への信頼と従順あっての私たちの救いだった。私たちが救われたのは、私たちも神に信頼し、御心に従うためだ。真の従順は、心からの信頼から生じる。信頼なしには従えない。自我が十字架で始末され、キリストが内住されるという恵みをいただいて、イエスが持っておられた神への信頼と従順がわが内にも成る。
これがキリストの心をわが心にするということだ。私たちが光に従い、御言葉に聞き従えば、主がそこまで導いてくださる。問題はどれだけ渇き、従っているかだ。
「それゆえ神は、この方を高く上げて…」(9節)は、キリストの高挙、復活-昇天-御即位を表す。神は、御子の徹底した従順を見て、高く引き上げ、至高の名をお与えになった。キリストの名が至高であるのは、私たちを全く救う唯一の名、救いと聖潔を得させるただ一つの名だからだ(使徒4:12)。
この御名によって、終わりの日の栄光の朝には、あらゆる被造物が膝を屈める(10節)。「イエス・キリストは主なり」(11節文語)とは“イエス・キリストはわが全てです”ということだ。私たちも内にキリストが生きてくださるという信仰を頂いて、主に全く献げて「イエスは主なり」と申し上げたい。
クリスマスは、神の御子がへりくだられたことを知る時だ。そして、私たちがキリストに倣う者として贖われていることを学ぶ時だ。キリストの謙卑がわが内に成った者として歩ませていただこう。